戦後70年

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    母の手記を読む(4)

     

    紀久枝母が入院して今日で58日目。

     

    紀久枝母との、本当のお別れが近付いた。延命治療である栄養チューブを外し、母本人が強く希望していた「自然死」に近い形にしてもらえるよう、主治医と話がついたからだ。

     

    今、母は鼻からの管が外され、最低限の点滴治療だけで、ゆっくりした呼吸と穏やかな表情で死期を待っている。

     

    私は当初、ソーシャルワーカーさんに相談しながらも辛くて悩みあぐねていた。でも、母が25年間書き溜めた手記を読み終えて、やっと母の延命治療を断念することができた。この決断には、やはり母の手記の力によるところが大きい。

     

    80代に入った頃、母は急激に体調を崩した。「要介護2」の認定を受けながら、とにかく這ってでも自分のことは自分でしようとし、毎日ワープロに向かった。虫眼鏡で文字をとらえ、人差し指でキーを打ち、日々持てあますような我が身を写生した。

     

    以下の手記は母が87歳で、やっと文字を書けた最後の頃のもの。日々の暮らしを日記の形にしている。

     

     

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    「老いゆく日々」   井筒紀久枝 


    (NHK学園文章教室 2008年 投稿作品)


     

    十一月 六日


     今日は朝から食欲もなくしんどい。夕飯のとき夫が

    「少しでも食べておかなあかん」

    と、すすめるので無理して夫の一口ほどを食べた。

     明日の朝の仕度をしておこうと思い、薬缶に水を満たしコンロにかけたとたん、ふらっとふらつき仰向けに倒れてしまった。冷蔵庫で頭を打った。


     「頭、どうもないか」
    夫が言った。頭はどうもないらしいが立てない。起こしてもらって這いながら居間へ行った。腰の骨が横腹へ突き刺さったように痛い。寝させてもらったが吐く。トイレへ吐きに行こうと思うのだが歩けない。這いながら夫のゴミ入れの中のゴミを放り出してその中へ吐いた。一晩中眠りもせず吐き続けた。


     「救急車を呼ぼうか」
    夫は言ったが、自然死を望んでいる私は病院へは行きたくなかった。


     明日は陽子が来る。陽子に看てもらおう。


     

    十一月 七日


     朝になっても吐き気は治まらなかった。


     今日は金曜日。陽子が来る日だ。夫は陽子に知らせている。お粥を炊いて昼頃持ってきてくれた。重湯のようなお粥を二匙食べた。今度はどうにか治まった。


     陽子の所で面倒を看てもらうことになる。車の後ろの座席へ毛布を敷き寝させてもらった。新谷家でまた世話になる。


     平成十二年、私は目まいと吐き気が治まらず、新谷家へ引き取ってもらい、介護保険の認定を受けた。それには籍を移さなければならなかったので、私は今も新谷家の扶養家族になっている。京都市から離れた城陽市である。かかりつけ医院もそこにあるから、いちいちそこまで行かなければならない。


     

     十一月 八日


     新谷家へ来た私に陽子はお粥を炊いてくれた。寝ている私に食べさせてくれる。昨夜は三匙食べたし、今朝は小さい茶碗に半分ほど食べさせてもらった。従来の薬も飲ませてもらう。トイレへは手摺りにもたれ陽子に連れて行ってもらう。


     内科へ先に行こうかと思ったが、週に一度行っている整形外科へ行くことにした。レントゲンをかけてもらった。腰からお腹にかけてまともに歩けないほど痛いのに、骨折はしていない、お腹の方はガスが充満しているので分からないと言われた。


     とにかく以前、圧迫骨折したときに作ったコルセットをしていなさい、ということになった。鎧のような重たくて硬いものである。それをこれから一ヶ月ほども身につけていなければならない。


     いい加減に死にたいと思う。わが子とはいえ、こんなに世話になっているのだから。


     

     十一月 九日


     今日は内科の I 医院へ行った。どこへ行くにも陽子が車で連れていってくれる。運転歴二年半、I医院へ行くには踏切があるし道はせせこまいし、運転には気を遣う。それでも陽子は嫌な顔ひとつせず、私をかまってくれる。


     I 先生の診断、

    「腸にガスは充満しているけれど腸は動いている、コルセットをしているよりしょうがないな」 
     

     この先生は、自然死をすすめられ、入院はすすめない。私も自然死を望んでいる。以前、それをご存知の先生は、

     「何にも食べず水を舐める程度で、十日は生きてるで」

    と、生々しく話されたことがあった。今度は私もそうしようと思った。


     「おとうさん、私死ぬわ。もう何にも食べさせんといて。陽子のとこにも行きとうない。」

     「そんなこと言うて、お前の苦しむの見てられへん。」


     本当に三日で苦しくなった。

     

    (後略)

     

     

    この後、本格的な介護生活が始まり、母の手記は「介護される側の視点」でさらに1年続いた。

     

     

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    プロフィール

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    俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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