母が遺してくれたもの(4)

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     「戦争を拒む未来」
     
    旧実家の片付けはなかなかはかどらない。思いがけず懐かしい写真が出てきたり、若かりし頃の自分の日記に顔を赤らめたり。すぐに手が止まってしまう。
     
    母の遺した手記や著書を読み返し、少しずつこのブログにUPしているが、こちらの方はなかなか奥が深くデリケートな内容もある。慎重に読み込み、後世に語り継ぐべきものを選んでいきたいと思っている。
     
    今回は、41年前(1985年発行)のもの。
     
    戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会/編
    「戦争を拒む未来」

     
    kobamumirai.jpg

    「はじめに」として飯沼二郎氏の序文がある。最後の一段落を以下に引用させていただく。
     この本は、人から頼まれたものでもなく、全く自主的に、しかも原稿料をもらうどころか、逆に1ページ6千円を払ってまで、自分の戦争体験を子孫に伝えようとした方々の39編の文章を集めたものです。こういう方々が、戦後40年もたった今日、しかも政府やマスコミの反動攻勢のなかにあって、なおかつ全国に39人もおられたということに、私は大きな驚きと喜びと誇りを感じます。「戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会」の方々が、「丸木位里・丸木俊原爆の図をみる会」の活動の一環として、このような本をつくって下さったご努力に心から感謝するとともに、これからもご一緒に、このような企てをつづけていきたいものとおもっています。

    「第一章 往還―破られたもの―」
     
    この中に母の手記4編が掲載された。以下に最初の一編のみを記す。
     
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     わが子への追悼記   井筒紀久枝

    昭和初期から終戦直前にかけて、満洲開拓は五族協和を理想にした国策として実施されたもので、国民の多くは将来の王道楽土を、その沃野にゆめみて参同したのである。私もその一人であった。当時の教育によって培われた私たちの純真なゆめや、理想は結局「中国侵略」と、いわれるものなのであった。
     
     一、お 産
     
    私はそのとき、暗いランプの灯影の下で五分おきぐらいに襲ってくる陣痛に喘ぎながら考えていた。この陣痛がきてもう三日になる。私もお腹の子も苦しんだあげく死んでしまうのだろうか?あの牛のように・・・。
    昭和18年3月。私は自分の青春を賭けて大陸の花嫁に応募した。見ず知らずの人を夫に定め、はるばる北満の
    果てまで行ったのである。電灯もなく、病院もない医者もいない開拓地。冬は氷点下30度、40度の北満であった。

     
    男たちは、大陸にまだ馴れきらぬ花嫁たちに、広い耕地と、数多くの家畜を残し、その上、自分の子を孕ませて戦地へいった。
     
    私は、乳牛5頭、馬5頭、豚30頭を飼育しなければならなかった。牛は次々仔を産み、乳を出した。ある朝、飼葉を与えに牛舎へ入っていくと、予定日を過ぎた牛が苦しんでいた。私は先生(農事兼畜産指導員)を呼んだ。牛は4本の足を折り曲げて座りこみ、首をもたげて苦しんだ。
     
    先生は「逆子だ、下へ押しだすようにして擦ってやれ」と私に指示した。私は両手に藁を掴み腹の仔が無事産まれるように祈りながら擦ってやった。
     
    私の胎内にいる子も、ときどき動いていた。
     
    やがて日も暮れかかろうとする頃苦しみぬいた牛は死んだ。一日中擦っていた私の顔を悲しげに見つめ、その大きな目から涙を流したと思うと「モー」と一声啼き、もたげていた首がガックリ垂れた。腹の仔も動かなくなっていた。
    その後まもなく、私の胎児も逆子ではないかと思うようになった。それは頭と思える丸くて固いものが腹の上部にあったからである。頼みとするのは、その頃日本から来たばかりの看護婦さんだった。しかし未婚者で私と同い年の若さだった。
     
    私は、お産で死んだ牛の顔を鮮烈に思い浮かべながらも、いつかうとうととしていたらしい。広い草原を一目散に走っていた。早く母のいる日本へ帰ろう、母のもとへと果てしない昿原を走っていた。と、「ねえさん」「ねえさん」と遠くで私を呼ぶ声がした。それでも私は走っていた。近くまで迫ってくるその声にふりかえった。そのとたんに気がついた。
     
    「眠ったらあかん」「眠ったらダメよ」
     
    いつのまにか、私の仲間が枕元に来ていて私の頬を叩いているのだった。
     
    故郷を離れてきている私たちの絆は、肉親以上のもので、お互いに「ねえさん」と呼び合い、親しみ、助け合っていたのである。
     
    「ポン」と音をたてて破水し、羊水が飛び散った。それから数時間・・・。
     
    「あっ、足が・・・」と、うつろに聞こえた。私は一生懸命いきんだ。ねえさんたちが「頑張って」「頑張って」と、私の両手を掴んでいた。何とも言えぬ痛みがいきみを伴った。そして力が抜けた。
     
    昭和19年8月20日のことである。
     
    産まれた小さな女の子は、清く美しく育って欲しいという願いから清美と名付けた。
     
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    tuitoki.jpg

    清美は、敗戦後母の背中で命からがら帰国できたが、食べるものも薬もなく栄養失調で2歳半の命を閉じた。
     
    清美は、まわりの大人たちのように戦争に加担することもなく、文字通り「清く美しい」まま亡くなった。

    同じ母親から生まれてきた女の子でも、私は戦後の平和な世の中に生まれ、何不自由なく心から笑い歌い、美味しいものを食べ、恋愛をし、子供を産み育てる喜びも味わってきた。一方、戦争の真っ只中に生まれた清美は、苦しんでやっと生まれ落ちたら逆子。生後も、すでに父は戦場に取られ、1歳で敗戦。その後は地獄のような苦しみ。怖さと寒さと痛みと飢え、渇き。そして最後には死が待っているだけだった。

    これほど理不尽なことはない。戦争は、同じ人間の生を、これほどまで悲惨にしてしまう不条理なものなのだ。改めて実感した。
     

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    俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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