母が遺してくれたもの(3)

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    「孫たちへの証言」

    旧実家の片付けに来るたびに、母の遺した手記や著書を読み返している。

    新風書房発行「孫たちへの証言」第12集(平成11年発行)
               〜今、書き残しておきたいこと〜

    この第12集のテーマが「今、書き残しておきたいこと」。
     
    では、第1集から第11集にもそれぞれのテーマがあったはず。パラパラ見てゆくと、最後のページにあった。

    「孫たちへの証言」
     全国公募の中から選び抜かれた玉編の証言集

     
     第1集「私の八月十五日」
     第2集「激動の昭和をつづる」
     第3集「そのとき、私は・・」
     第4集「戦争、それからの私たち」
     第5集「いま語り継がねばならぬこと」
     第6集「こんなことがあっただョ」
     第7集「なんとしても語り継ぎたいこと」
     第8集「50年前のあのことこのこと」
     第9集「次代へ語り継ぐ私の戦争」
     第10集「心にしまいこんでいたこと」
     第11集「今だから語れること」

    ざっとテーマだけを見ても、戦中戦後を生き抜いた方たちが、孫たちの世代に向けてぜひこれだけは書き残したい、という熱い思いが伝わってくる。
     
    編集者、福山琢磨氏(新風書房代表取締役)の「あとがき」によると、1018編の中から98編が採録された、とある。母の手記もその1編として掲載された。
     
    magotatihe2.JPG

     国策にそい“大陸の花嫁(興亜開拓団)”になった私
                  京都市 井筒紀久枝 (七十八歳)
       
    昭和十八年四月、国策に従い「大陸の花嫁」を志願した私(22)は、写真も見ず、見合いもせず、第一次満蒙開拓団青少年義勇軍名簿の中から一人を夫に決めて渡満した。

    現黒龍江省甘南県、チチハルから二百キロの奥地だった。

    甘南地区には第九次として入植した熊本(東陽)、福岡(興隆)、山口(新発)、愛知(三合)、茨城(義合)、山形(協和・大和)、福島(呉山・大平)、福井(興亜)と十の開拓団があった。

    福井県の義勇隊は興亜開拓団に編入された。本部は五キロ離れた位置にあった。

    義勇隊員は三十人ほどだったが十九年早々より召集令がくるようになり、私の夫も応召した。八月女児清美を出産した。母子の命が危ぶまれるほどの難産だった。

    二十年。春には義勇隊員三人、女十三人、赤ん坊八人になっていた。治安が悪く、七月には本部へ集結、敗戦は八月十七日に知らされた。

    自決を唱える興亜国民学校坂根幹雄校長に賛同する教え子や義勇隊の私たちと、団長以下の自決は二十日校舎内で決行と決まった。
     
    二十日は清美の誕生日である。私は満一歳の子にも決死の白鉢巻を締めてやった。決行の日、団長以下数人が、自決を止めに来た。その日は校長と団長の争いで終わったが、翌二十一日、教員宿舎から白鉢巻を締めた奥様(教師)が毅然として出て来られた。

    「先立つことを許してほしい。きみたちは生き延びて祖国の復興につとめてほしい」と、死出のあいさつをされた。私たちは返す言葉もなく、後ろ姿に「君が代」を歌っていた。

    六、七発の銃声を聞いたのはそのすぐ後だった。

    坂根幹雄校長(34)、みち夫人(24)、廉太郎君(4)、興次郎君(2)、坂根きくえさん(24−学校職員)、坂根いくのさん(23−本部職員)の六人だった。

    略奪と暴行の混乱の中、私たちは、昼は野菜を貯蔵していた穴蔵に身をかくし、夜は手製の槍を持って夜警に立った。毎日毎夜何人も殺されたり捕らわれたりした。そして、十月九日のことである。近くの朝鮮人数人に本部を夜襲から守ってやるとだまされ不意打ちをくい何もかも奪われ尽くし宿舎と学校も焼かれてしまった。

    生き残った男数人について女と子供と怪我人、数十人が避難したのは、福岡県の興隆開拓団だった。団長の山本実氏は、厳しい態勢の中にありながらも、興亜の生き残りを受け入れてくださったのである。ここでも自決、餓死、凍死があいついだ。

    二十一年五月チチハルへ南下した。このとき、私と同期の「大陸の花嫁」だった西沢千代子さんは、二歳のわが子満邦ちゃんを負うて二百キロの道を歩く自信がないと言って南下を拒み、興亜の十人ほどの孤児とともに火梨地(ほりで)部落へ残留した。のち、孤児たちは一時帰国、永住帰国したが、西沢母子の消息はようとして分からない。

    チチハル収容所では、伝染病が蔓延して栄養失調の体が冒され、大勢の人が死んだ。私は収容所を出て、満州人の乳母に入ったので、母子は食べさせてもらうことができた。しかし、八月二十八日チチハル引き揚げ。無蓋貨車での無理は、幼いわが子清美の体を蝕んでいった。栄養失調で痩せ衰え下痢をくりかえして苦しみながら船に乗ったが帰国三ヵ月後の二十一年一月に死んだ。その半年後、夫は栄養失調と怪我によってシベリアから復員してきた。しかし、夫婦の愛は育たず離婚した。

    のち再婚し貧困と住宅難にあえぎながら二人の子供を育てた。そして、五十年経った。「中国残留婦人の会」会長山田忠子氏(山口県)は、毎年残留婦人を数人ずつ里帰りさせている。京都で歓迎会のとき、私はモンゴルから来た人と隣り合わせた。甘南県呉山開拓団の人だった。

    「日本語よく覚えていたわね」
    「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

    東北弁が残っているのが哀れだった。

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    この手記の中にある、西沢千代子さんと満邦ちゃん母子について、母は最晩年、老人ホームに入居してからも何度も語っていた。敗戦当時は、自分たち母子のことだけで精一杯で、彼女に帰国を説得しきれなかったことを繰り返し反省していた。

    母が50年後に出逢った中国残留婦人の

    「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

     
    この言葉に胸がつぶれる。帰国まで、気の遠くなるほどの年月を、彼女はどれほどの思いで待っておられたことだろう。

    そして彼女のように、いつか日本に帰れる日が来るのを信じながら、日本語を忘れないよう、独り言だけはは日本語でつぶやきながら、そのまま鬼籍に入ってしまわれた残留婦人もあったことだろう。

    決して忘れてはいけない史実だ。

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    俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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