戦後70年の夏に

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    母の手記を読む(3)


     

    母が25年間書き溜めた手記を読んでいる。

     

    意識のほとんどなくなった母に毎日音訳しながら、私自身が励まされている。意識がなくなっても、肉親の声はどこか懐かしく聞こえるとか。看護師さんが仰っていたので多分そうなのだろう。確かに母は、私が声をかけるとうっすら目を開け、ホッとしたような表情になる。

     

    母の手記の中から今日は、旧満州からの引揚げ後栄養失調で亡くなった、母の娘(私の父違いの姉にあたる)のお話。

     


    「お米のご飯」   井筒紀久枝 


    (NHK学園文章教室 1984年6月 投稿作品)


     

    それは、清美が生まれて初めて口にするお米のご飯であった。

    「お母ちゃん、おいちぃ。」

    栄養失調で、痩せ衰えた幼子は、皺としかならない笑顔で私を見つめた。

     

    「ああ臭い、これは引き揚げ列車だぞう」

    私たちが乗せられた列車に、どやどやと大勢の人が乗り込んできたのは、山陰線のどこの駅だったかは知らない。

     

    「引揚者の皆様、長い間ご苦労さまでした」

     佐世保上陸のとき、大きく書かれたこの垂れ幕を目にし、「ああ、やっと帰って来た。私は生きて故国に帰ってきたのだ。わが子清美もまだこうして生きている。故国は私たちをあたたかく迎えている」と、私はこみあげる涙をおさえ、清美を抱きしめた。

     そして、母が心配しているであろう故郷へと心ははやった。

     

     だが、列車へ乗りこんでくる人の犇めきや、「引揚げ者だ、臭い。」の囁きに、佐世保上陸のときの感激はうすらいでいた。まだ、この人たちが、闇のかつぎ屋であることは知らなかったけれど、漸く帰ってきたこの故国のきびしさは、私にも感じとれた。

     

     しかし、あたたかい人もあった。

     私たち母子の前に立った中年の男の人は、風呂敷包みをごそごそしていたと思うと、私の前へさしだしたのは、真っ白いお米のご飯のお握りであった。

     私は思わず、生唾をのみこんだ。

     

     私は、当時の満州、竜江省の開拓団。中国の最北にあって、夫の応召後に生まれた清美とともに、多くの人が命を落としていく中を、逃げ、かくれしながら、あるときは物乞いをしたり、盗みをしたりして、生きのびてきたのであった。

     清美は、過度の栄養失調になっていたが、どうにか生きていた。

     

     引き揚げ船では、日に二回の「めしあげ」。甲板から、私たちのいる船底へ向かって「めしあげぇ」の声がかかると、清美は、私にくっつけていた頭をもたげて、早く取りにいくように促した。大人も子供も、小さい椀に一杯の雑炊の配給である。その雑炊には、昆布でもない、わかめでもない、ぱさぱさした海藻が長いまま入っていて、それを引き上げると、高粱の粒が底の方に泳いでいるといったようなものであった。

     ときには、その代わりに一掴みの乾パンであった。乾パンの中には虫が巣食っていて、うようよ蠢いていた。それを虫ごと食べた。

     衰弱しきっている清美に、こうしたものを食べさせると、直ちに激しい下痢をおこして苦しんだ。それでも清美は食べ物を欲しがった。

    私はその子の前で二人分を食べていたのである。そして、その分をと思い、自分の乳房をあてがっていた。私も栄養失調同然。その乳房から、どれほどの乳が出ていたのだろう。清美は、横たわっている私の乳房に、夜も昼、しがみついていて離れなかった。

     

     殆どの幼児は、とっくに亡くなっていたが、清美は死ななかった。逃避中や引揚げ途中に亡くなった屍は、野に捨てられ、犬や鳥に漁られているさまや、船の上から海中へ投げ込まれるさまを見ている私は、どうしても故国の土を踏むまで生かしておきたかった。私の一念が天に通じていたのかもしれない。とにかく、私の子供だけは私の腕の中で生きていたのである。

     

     私は、「すみません、ごちそうになります。」と、その大きなお握りを割って、少し、清美の口の中へ入れてやった。

    「お母ちゃん、ああおいちい。」

     ため息とともに、何とも言えぬおいしいといった喜びの表情であった。また私も久しぶりに味わうお米のご飯であった。

     

     こうして、故郷の小さな停車場に降り立ったのは、昭和21年10月も終りであった。いつも母が言っていた「生まれ故郷へ錦を飾れ」とはほど遠く、汚く、痩せ衰えた身にボロをまとった母子の姿であった。誰にも見られたくなかった。昔と変わらぬ山や川が懐かしかった。

     

     不意に帰って来た私たち母子に、母は喜び、うろたえ、身体を洗う湯を沸かし、食事をということであったが、汽車の中でいただいたような白いご飯ではなかった。

    「毎日こうして陰膳していたんやで」という貧しいお膳であった。

    私の故郷は稲作もできない山峡である。

    父を早くに亡くした母は貧しく、米と交換する物もなく、配給される僅かな米に、山の木の芽や野草を混ぜたり、山畑で作った根菜を主食にしたりして飢えをしのいでいたのであった。

     母の私を想う心のこもった陰膳なのであった。

     

     清美はその3か月後に死んだ。

     

     あれから39年の歳月が流れ、もう誰も聞き手のない昔がたりになってしまった。

     

     

    okomenogohan.jpg 



    以上、ほぼ全文を掲載した。

    母がこの手記を書いてから、さらに31年の歳月が流れた。

     

    満蒙からの引き揚げ体験は、体験した者でなければ到底理解してもらえない。それほど悲惨なものだったという。

     

    母の最後の一節、「誰も聞き手のない昔がたり・・・」には決して終わらせない。そんな使命感を、改めて痛感している。


    秋空へ袖伸ばし干す病衣かな  亜 紀



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    俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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