戦後70年の夏に

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    母の手記を読む(2)


     

    1982年から2007年までの25年間、母が書きためた手記が手元にある。これらを毎日少しずつ入院中の母に音訳している。と言っても、重篤な脳梗塞でほとんど意識のない母にはどこまで聞こえているのか、表情から推し量るしかない。

     

    すでに出版された母の著作に添った内容もあるが、原稿用紙10枚分それぞれにテーマが付けられ一遍のエッセイになっているので、短編として読める。いくつか抜き出してみたい。


     

    「い・の・ち」   井筒紀久枝
     

    (NHK学園自分史講座 1990年11月 投稿作品)


     

     その胎内に芽生えた小さな命は、この世に生まれてくるべきものではありませんでした。当世なら闇から闇へ葬られた命でした。

     

     が、当時の法規は厳しく、たとえ、産婆(助産婦)をしていた母親であろうとも、娘の身体の異常に、いち早く気づきながらもそれは叶わぬことでした。そのときの母娘の苦悩が窺われます。

     

     私が「お父(とう)」と呼んでいたのは、私の父ではありませんでした。母は、私より十歳年上の男の子のある父の元へ、赤ん坊の私を連れて嫁いできたのでした。

     

     私が物心ついたころには、私は周囲の人からいじめられていて、母からも粗末に扱われていました。生傷の絶えない痩せっぽちの子どもだったのです。たまに私を見にくる祖母が救いでした。産婆をしていた祖母は、ときどき

    「おっ母(か)に貯金してもろとけや」

    と言って、大きな五十銭銀貨を握らせてくれました。しかし、その貯金通帳も、ついに見ることはできませんでした。

     

     尋常小学六年間、通知表にはいつも「栄養丙」と記されていました。その小さい身体の女の子は、尋常科を卒えると製紙女工になりました。当時、昭和の初期、結核が蔓延していて女工の仲間たちは、次々結核に冒され永い患いのあと死んでいきました。体格の良かった若者が痩せ衰えて死んでいくのでした。けれども私は、一日十時間の作業をして、月、二日の休日、ときには残業までしていましたが、結核には罹りませんでした。

     

     やがて私は、大陸の花嫁を志望して満州へ行きました。大陸の開拓地で、私は身も心もどれだけ伸び伸びしたことでしょう。けれどもそれは僅かに一年足らずでした。見ず知らずの人と結婚して漸く、その夫の気心が知れようとするころ、夫の応召でした。そのとき私は身ごもっていました。私は、身ごもった身体で、夫の意志を継ぐべく農耕と共に畜産の指導をうけ、乳牛の世話をしていました。乳牛は次々に仔を産みました。

     

     ある朝、飼葉を与えに牛舎へ入って行くと、出産間近の牛が苦しんでいるのです。私は、獣医でもあった指導員の先生に告げに行き、診ていただきました。逆子だったのです。私は、先生の指示に従い、牛の胎内で踠いている仔牛が下の方へ出てくるように、藁を摑んだ手で母牛のお腹をさすりました。

     

     私の胎内でも時々ときどき胎動を覚えました。私は、仔牛が無事に生まれてくるよう祈りながら一生懸命さすっていました。けれども夕方近く、牛は、一日中看病していた私の顔を悲しげに見つめ、その大きな目から涙を流したと思うと「モウー」と一声啼き、頭をがくっと垂れたのです。腹の中の仔牛ももう動いてはいません。二つの命が消えたのでした。

     

     その四ヶ月後、私のお産は全くその牛と同じ状態になったのです。私の胎児も逆子だったのです。病院もなく医師もいない開拓地で、一人の若い看護婦さんだけが頼りでした。激しい陣痛の合い間に、死ぬ間際のあの牛の顔が浮かびました。私もあの牛のように死んでしまうのかと思いました。看護婦さんは、私だけでも助けようと思われ、見え隠れしながらなかなか出てこない胎児の足に紐をかけて引っ張り出そうとされたらしいのです。そのとき、赤ん坊は私の胎内から出てきたのです。助かった私の命と、この世に生れ出た命でした。

     

     そして、一年は経ち、祖国の敗戦でした。若かった私たちは生きて辱めをうけるよりもと思い、自決を決意しました。ところが決行しようとする直前になって、年長者の自決反対組から阻止されてしまいました。それでも、自決を唱えたリーダーの校長先生一家は、その反対組の人たちと争いながらも翌日自決を決行されました。六人の人の命が同時に散ったのでした。

     

     それからは、私の身近で、目の前で、仲間たちが殺されたり餓死したり病死したりしました。それなのに、私は暴民が襲ってくる銃弾が頭の上を掠めても足元に落ちてきても、もうこれまでと逃げるのを諦めても、捕えられもせず弾にも当たりませんでした。

     

     ある時は八路兵に従わなかったので銃口を向けられたこともあります。私はそれまでに、こうして八路兵に一発で殺された人を見ていました。私は母子一緒に殺して欲しいと思い、子供を抱きしめて「撃て」と、座り込みました。ところが丁度そこへ、その兵隊の上官が現れたので、兵隊は銃を下したのです。

     

     チチハルの収容所でも多くの人が病死したり餓死したりしました。その死体から出てきた虱や蚤にたかられました。しかし私は、親切な中国人の家庭に母子共に住み込みで雇われることができたのでした。四、五歳までの子どもは殆ど栄養失調になって死んだり捨てられたりしていましたが、私は子どもを連れて引き揚げてくることができたのです。

     

     しかし、子どもを連れて帰ってきたものの、わが子を私と同じ境遇にはさせたくありませんでした。その祈りのような思いは叶えられず、引き揚げ道中の栄養失調がもとで、子どもの命は奪われたのです。私のせめてもの慰めは、わが子を異国の土にせず故国で葬ってやれたことでした。すべてをなくした私は、その後幾たびも死を試みましたが、死ねませんでした。

     

     やがて私は再婚し、二人の子どもができました。不運と貧困はつきまとい、私はなぜこの世へ生まれてきたのだろうと、子どものころからの思いは募り、私を産んだ母を恨みました。

     

     母は、私のほかに三人の妹を産みましたが、三十代で夫を亡くしています。

    「お父が死ぐ(死ぬ)とき『お前はうらの分まで長生きせいや』って言うたけど、うらは若いときからおぞいことのうた(苦労した)さかい長生きはでけんやろ」と言うのが、母の口癖でした。

     

     事実、父の死後も豆腐屋を続けていましたが、ときどき胃痙攣を起こしたり、肺尖カタルに罹ったりして、子どもの私たちに心配させていたのでした。それなのに、今まだ九十二歳の命を保っています。

     

     その母の世話をしてくれていた妹が、今年の春死にました。癌に冒されているとも知らず、手術後も一向に良くならない自分の身体をもてあましながらも、

    「私はまだ死にとうない。おっ母より先には死にとうない。」

    と言いながら六十六歳の命を閉じたのでした。

     

     自分のものでありながら思うようにいかない自分の命。命は神様から与えられているのでしょうか。

     

     と、すると、これは神様のたわむれなのでしょうか。なぜなら、昨年、私の娘が二人目の子を五年ぶりに身ごもりました。ところが、八ヶ月に入ろうとする頃死産してしまったのです。その後間もなく娘は再び妊娠し、今また出産を控えているのです。

     

     死産した水子は、そのとき荼毘に付したのですが、小さなお骨が完全な形で残りました。マッチ棒ほどの細さの手足の骨と、それより細い肋骨が並んでいるのには感動しました。

     

     私は過去に、生活苦からとはいえ二、三回堕胎しています。私はこれを見て、自分の罪を意識しました。神様のたわむれなのか、それとも私の罪のへの罰だったのか、娘の死産と、やがての出産に、私の頭の中は交錯し、生まれてくる子の無事を祈るばかりです。

     

     今年の夏のある日、わが家侵入してきた蟻の列に、私は殺虫剤を噴きかけました。蟻はその辺にゴマでもまいたようになりました。が、数匹がまだせっせと歩いていました。私はそれを見て、むかし満州で敵に襲われながらも逃げ延びることのできた自分の姿を思い出し、潰すことはできませんでした。

     

     すべてのものに命があります。樹齢何百年もの木が毎年、芽を吹き花を咲かせ実を成熟させています。かと思うと、春から夏へ精いっぱい花を咲かせ枯れていき、種子をこぼして次の世代に残す草花があります。この夏の暑い日照り続きに萎えている農作物も、水を与えればしゃんと起きあがります。暑さにもめげず勢いのいい雑草は刈っても引っこ抜いても、新しい芽を伸ばしてきます。みな、命の限り一生懸命生きているのです。

     

     わたくし六十九歳。やがて七十歳になろうとしています。むかし流に言えば古来稀な長生きだとして祝われたであろう「古稀」なのです。身長153センチ、体重38キロ。若いときから45キロを超したことはありませんでした。けれども病気らしい病気もせず過ごさせていただきました。

     

     母を恨み世を恨み、自分の出生を恨んだこともありました。しかし、今は、この世へ生をうけさせていただいたことに感謝しているのです。私はこの世へ送り出されて、あらゆる試練を与えられましたが、危機が迫るといつも神様か仏様のご加護をいただいていたのでした。

     

     私は、人に「あんたは百歳まで生きるやろ」と言われていますが、これから何年か命ある限り心豊かに生かせていただくつもりです。

     

     

     inochi.jpg

     

     

    以上、プライバシーを守るため一部割愛したが、ほぼ全文を掲載した。

     

    「いのち」をテーマに、すべて母の体験の中から語られているので、胸に迫るものがある。

     

    文章の中で、「自分のものでありながら思うようにいかない自分の命・・」と書いているが、今、ほとんど意識のない中で、母は同じような境地にいるのかもしれない。穏やかそうな母の表情の中に、時々諦めたような、悟ったようなまなざしが見える。


     

    敗戦忌母のペン胼胝固きまま  亜 紀



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    プロフィール

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    俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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