中国残留婦人のひとり舞台

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    神田さち子さん
    のひとり芝居「帰ってきたおばあさん」を娘と一緒に観に行って来た。

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    中国残留婦人の体験を迫真のひとり語りで演じるさち子さんの横浜公
    演。今回でなんと185回目だったとか。素晴らしかった!


    公演パンフレットから「あらすじ」だけ引用させていただく。
     

    〜あらすじ〜

    戦争は弱いもんが犠牲になるとです

     念願叶って懐かしい祖国に一時帰国した王桂花(日本名:鈴木春代
    )。
     鹿児島の錦江湾の浜辺で、ボランティアに自身の半生を語り始めた
    ・・・
     「私たち夫婦は、新しい生活を目指して満州(中国北東部)開拓団
    に加わり、大陸へ渡りました。
     農業も順調、子宝にも恵まれて私たち家族は幸せでした」
     その幸せも日本の敗戦によって激変する。逃避行の中で春代は我が
    子を手にかけ、暴民に襲われ、夫にも見捨てられる・・・。
     置き去りにされた彼女を助けてくれたのは中国人の王才人。
     彼との間に子供も産まれ、再び新しい家族と幸福を見いだしたのもつかの間。中国全土に吹き荒れた文化大革命の嵐で彼女の家族はバラ
    バラに・・・。
     「私たちは、日本の国へ何も言うことはありません。ただ、私たちのような者が中国の地にまだたくさんいることを、忘れないで下さい。」

     

    さち子さんは、今年8月老人ホームの母に会いに来てくださり、おかげで母の記憶のスイッチが入った。

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    一歩間違えたら残留婦人になるところだったという話、生きてゆくた
    めに仕方なく開拓地に残留した「大陸の花嫁」仲間の話・・。母の昔語りはいつも鮮明。当時の会話までリアルに再現される。


    決して風化してはならない母たちの戦争体験。しっかり受け継ぎ、語
    り継がねば。今回もそんな思いを新たにした。

     


    中島多鶴さん、ありがとうございました!

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      満蒙移民の語り部として、また中国残留婦人の帰国支援にご尽力された中島多鶴さんが亡くなった。


      突然の訃報は、中国残留婦人の半生を長年一人芝居で演じ続けていらっしゃる女優、神田さち子さんからの電話で知った。


      今年3月、「満蒙開拓平和記念館」(長野県阿智村)を訪問した折、私は多鶴さんの1時間余りに及ぶお話に深い感銘を受けた。以前、こ
      のブログでも紹介したが、多鶴さんの旧満州での体験談はどのエピソードも捨てがたく貴重なものばかり。


      一度もお座りにならないまま、ひと言ひと言丁寧に、そして気丈にお
      話しされた多鶴さんの口調、凛とした立ち姿が忘れられない。


      その後も、お電話をしたりお手紙を出したりして、また近いうちに記念
      館でお会いしましょうと約束していたのに・・・。残念で悲しくてならない。


      多鶴さん、本当にありがとうございました!
      心からご冥福をお祈りいたします。


       

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      「満蒙開拓平和記念館」訪問時「まし野ワイン」で入手した石仏。(大場敏弘氏作)
      老人ホームの母は毎日手を合わせている。




      「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて(5)

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        「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて (5)


        「記念館」でお聴きした中島多鶴さんのお話の後半部。

        旧満州から引き揚げて来た母の体験と重なる部分も多いが、この後半部の多鶴さんのご体験はさらに壮絶で悲惨。

        1945年8月、多鶴さんたちの開拓団は日本の敗戦を知らないまま方正の収容所を目指した。三つの開拓団が結集し、2000人もの引揚者の列が山へと続く。いよいよ死の逃避行が始まった。・・・以下に、かなり長くなるがどうしても割愛できないのでほぼ全文を掲載させていただく。


        語り部 中島多鶴さんのお話(後半部)

        ・・・そして、川を渡ったり膝まで浸かるような湿地帯を歩いたりしました。そうすると途中でお年寄りたちが「もう私たちは歩けないから、どうかみなさん先に行ってください。」と言いました。「南無阿弥陀仏」を唱えているお年寄りもおられました。

        3日ほど歩いたら、もうみんな歩けなくなってきたんです。そして4日目。中国人の大きな部落に入り、そこで「おなかがすいたのでどうか何か食べる物を恵んでほしい。」と言いました。そしたら部落長さんが、トウモロコシのご飯をいっぱい作ってきてくれたんです。それでもってまた何とか命をつないで北へ北へと向かいました。

        そうしたらその夜、大襲撃にあったのです。私は「日本人を一人残らず殺せ!」という言葉を聞いてね、低い所で伏せていました。校長先生は一番先に馬に乗っていたので、撃たれて即死しました。そして男の人たちを目がけて鉄砲を撃ってくるのです。男の人たちはほとんど殺され、見えなくなってしまいました。私たちは、日が暮れたら歩いて逃げようということになり必死で移動しました。

        あくる朝見てみると、亡くなった人がみんな血みどろになって道路におります。私は最初、母と妹を三人連れていたんですが、私は足が速いので団長さんたちと先頭に行ってしまっていました。なので、母たちとどこかで別れちゃったんです。それで、もしかしたら撃たれて死んでしまったのかもしれないと思って、その朝、2・3キロほど戻ってみました。そしたら、くぼみの所に母が妹を抱えて隠れておりました。それからは、お互いに手拭いで腕を縛って、「今度ははぐれないように私の後を付いてくるんだよ。」と妹たちに言いました。

        そして歩いて行きましたら、今度は向こうから日本の兵隊が200人ほど来たんです。兵隊は「あんたたちはどこへ行くんだね?」と聞くから「私たちは行く当てがないので、助けてほしい。」と言いました。すると、「俺たちも、ある計画があってこれから南方へ戦争に行くんだ。」と言います。兵隊たちは銃を担いでいたので、団長さんは交渉して「このままじゃ、俺たちもどうしょうもないのです。兵隊さんたちの力を借りなければこの山を越えることもできない。」と言いました。そうしたら、兵隊さんもまだ戦争が終わっているということを知らなくってね。私たちを救ってくれたんです。

        牡丹江という大きな川がありました。そこまで行けた人はまだ元気だったのですが、子供を負ぶっていてはとても歩けるような道ではありませんでした。

        私はその人たちを待っていたんですが、「もう歩けない。歩けない。だから子供はここへ置いておく。」一人がそう言いだすとみんなもそう言って・・。「ここへ置いておきましょう。」ということになってね。

        でもね、言葉の分からない二・三歳の子供は、何も言うことができないけれど、大きな子供はね、「お母ちゃん、行っちゃいやだ、いやだ!お母ちゃんと一緒に行く。」と言います。それでお母さんは本当に切なかったと思うんです。私も二歳の妹をつれておりました。交代で負ぶって、9歳と17歳の妹は大きいので、なんとか歩いて行きましたけれど、とにかく死の逃避行というのか・・その山を越えないと生きていけないのです。

        兵隊さんは言いました。「それでは、連れていけない子供はここへ並べておいてください。20人ずつくらいを輪にして。そしたら手りゅう弾を投げてあげるから。」と。

        そのほうがいいということになりまして、「それではお願いします」と言って、手りゅう弾を投げてもらって・・。歩けない年寄りと子供に、山の上で手りゅう弾を投げてもらったんです。一回ではなかなか当たらない。「もう一回投げてください!」と言った人がいるんです。そうしたらもう一回も二回も投げてくれるんです。それで、相当の数の人が亡くなりました。



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         泰阜(やすおか)村開拓団の逃避行経路
         (『下伊那の中の満州 聞き書き報告集2』より)



        そして兵隊は、「この山を越えると方正という所があるから、越えられる人は越えて。そこには日本の兵隊がいるかもしれない。ソ連の兵隊もいるかもしれない。」それで、その地図の通りに歩いたんです。そして方正に着きました。駅を出てから22日間かかりました。

        私は団長さんと一緒でしたから早かったんですけれども、まだ後から来る人がいます。着いたのがもう9月3日でしたが、本当に寒かったです。そこでみなさんを待っていたんですが、お年寄りや子供を連れた人は半月待っても、ちっとも来ない人もおりました。「これから先は寒くなるし、団長さん、どうしたらいいでしょう。お金は持っていないし、食べる物もないし、どうしたらいいでしょう。」と聞いたら、「俺が住民の人たちに話して、中国人たちに助けてもらえるようにお願いするから。」

        そうしたら部落長をやっている中国の人が見えました。「どうかこの避難民を助けてほしい」とお願いしたら、「それじゃあ、分かりました。」と。そしたら今度はソ連の兵隊が入って来ました。悪いことはしませんでした。高粱(こうりゃん)をたくさん持ってきてくれたんです。ソ連の兵隊が。鉄兜も持ってきてくださって。日本の兵隊が捨てたものを持って来てくださった人もいました。中国の人がその鉄兜でそれを炊きなさいと言ってくれました。

        でも、この一冬をどうやって過ごすのだろうと思いました。団長さんはすでに縛られて連れて行かれていました。ソ連へ連れていかれたんです。後で聞いたら、最高責任者として銃殺されたそうです。団長さんの最後の言葉。「もう俺はどうなるか分からないけれど、みなさんどうか日本に一日も早く帰って、この惨事を伝えてほしい。くれぐれも頼む。」それからはもう団長さんの姿は見えませんでした。

        それからね、「伊漢通(いかんつう)」という所の開拓団の人たちが逃げた後の空き家があって、そこでへ行って屋根の下で過ごそうと、何人かが行ったんです。でも、9月3日から翌年の3月いっぱいまで氷点下30度40度をどうして過ごすの。みんな困っちゃったんですよ。お金のある人はお互い分け合って。中国の人も日本人に食べ物を売りに来るんです。それを家の中で火をつけて分け合ったんです。そのうちに栄養失調になってみんな倒れていきます。病気になって、朝起きたらもう冷たくなっている。本当にこれは、どうしたらいいか。

        そうしたら中国の人が「俺のうちに来れば助けてあげるよ」このままだと死んでしまうよ。食べる物もないし、俺のうちに来ればごはんもあるよ。」と言います。それで中国の人が、親切に言ってくれたのか、みんなが「それじゃ、お世話になるか」と言って行ったんです。

        30人ぐらいが一つの家にいたのですが、最初に行った人のお話を聴いてから行きましょう。ということになりました。中国人の家には5人ずつ行ったんですが、話によるとひとりずつ、ふたりずつ、分けちゃうんですって。そして中国の人たちの家々に配っちゃうんです。それじゃ悲しいです。一家全員おいてくれるという約束で連れて行ってもらったんだけど、そうはいかなくなっちゃったんです。

        また、行って戻ってきた人に話を聴いたら、「ここには男の人がいるから、あんたは若いからこの人の所に行け」とか。そういうふうに分けちゃうんです。それだから目的がわかりましてね。「それを承知で行くなら行っていいですよ。」と言うんです。でも「このままだと死んじゃうから、死ぬくらいなら中国の人の所に行って、生きていれば、いつか日本に帰ることもできるから。」と言って行った人が多かったんです。

        でも私のお部屋の人たちは学校の先生の奥さんや歯医者さんの奥さん。私たち若い者は15人くらい行かなかったんです。そしてお互いにお金を出し合って、食べる物を買ってね。「絶対に死んじゃダメ!」って私は言ったんです。私は看護婦をしていたので、「どうかみなさん死なないように、私たち助け合って生き抜いていきましょう。」と力づけたの。そしたら「もう死にたくない。」ってみんな言いますから、「中国の人たちの所に行ってもいいけど、それは自分で選択すればいいけれど、そうでなければ、あとで後悔しても困りますからね。」と、そんな話もよくしていたんです。

        そして4月になりました。学校の先生の奥さんが亡くなったりしたけれど・・私が一緒にいた部屋の人たちは30人。その中で生き残ったのが12人。12人しか残らなかったんです。みんな栄養失調で亡くなったんです。朝起きてみると冷たくなっているんです。それで、みんなで畑に持って行って置いてくるんですが、それが山になってしまって。氷点下30度・40度となると、死体も凍ってしまって、ほんと蝋人形のようになってしまいます。情けなくなっちゃってみんな祈りながら。

        4月の終わりごろ少し暖かくなりましたので、「みなさん、どう?」と生きている人たちに言いました。「これからね、ハルピンに出ませんか?」4月の10日ごろだったと思いますが、一緒にハルビンに行く支度をしました。

        4月と言ってもまだ寒いです。ありったけのものを着て。そのへんの毛布を切って縫ってね。そして、中国の人たちに笑われてもいい。そして本当にみすぼらしい姿でハルピンに出ました。ハルピンに11日かかって出ました。まだたくさんの人があっちのお家にもこっちのお家にもいるんですよ。だけど、そういう人たちに声をかけても、もしものことがあったら困るので、私はこの部屋の人たちだけと一緒にハルピンへ出ました。

        そこには収容所がありましてね。日本人が来たらそこに入るようにね。で、またそこに入ったんです。そうしたら、そこは、方正におれば良かったと思うほどの場所。コンクリートで、敷物もない。4月の半ば頃でしたがまだ寒かったです。

        そこでは、伝染病が大流行してね。発疹チブスが流行して。身体に虱がいっぱい湧いて、それが媒介して40度もの高熱を出して脳炎を起こして、変なことばっかり言う。入ったらそういう人たちがいっぱいコンクリートの上で寝ている。でも私もやっぱり近くに休まなければならないから、みんなと一緒に頭を並べてたんです。そしたらね、12人ハルピンへ出て、さらに生き残ったのは5人だけ。みんなそこで伝染病になって亡くなったんです。

        ある日、白衣を着たお医者さんが回ってきたの。顔をみたら前にいたハルピンの病院の先生じゃない。「先生!」って言ったら、「多鶴君どうしてここにいるんだ。こんなところにいたら死んでしまうじゃないか。」て言われた。その時私は40度くらいの熱があったの。今度は自分の番だと思っていたの。諦めていたけれど、先生が「早く支度しなさい。病院へ連れて行くから。」馬車に乗せて伝染病院に先生が幾人かを連れて行ってくれたんです。そしてそこで手当てをしてくれて、一本の注射で熱が下がって。まだ21歳でしたから治ることも早かった。ほかの人たちも元気になって。それじゃあ、日本に帰る準備をしましょうと言うことになりました。

        でも私は「また収容所に帰っていくと伝染病になるから、先生もう少しここに置いてください」と言いました。

        母と妹は3月の終わりに氷が解けないうちに先に開拓団のいる小学校に歩いて行っていました。「先に行っているから必ず後から来るように」と固い約束をしていました。

        でも、後で開拓団に戻って行こうと思ったら、もうその時には行けなくなっていました。治安が悪くなって。もう女がそこへに出ていくとどんなことになるか分からないと。そして友達と二人でハルピン駅に行ったんです。そしたら、ソ連から逃げてきた兵隊と出会いました。途中で窓から飛び降りて逃げてきたらしい。そういう人たちが7・8人おってね、「あなたたちどこへ行くんです?」と聞かれました。「私たちはこれから日本に帰りたい」と言いました。

        「女一人ではいけないよ。俺たちは明日の朝暗いうちにこのハルピン駅を出て、新京へ行く。10日ぐらいかけて歩いていけば、日本に帰る近道だから。」私たちはその話に飛びつきました。開拓団に行った母たちのことは分からないけれど、日本に帰る道を選んだんです。私はそれが正しい選択だったと今でも思います。

        そして兵隊さんにお願いしたら、「その服装ではだめだ。満服を買って帽子をかぶって髪の毛を切って、男装して俺たちの間に入って来なさい。」そしてハルピン駅を出ました。新京を目指して着いたのが13日目でした。奉天を目指して歩いたんですが私も歩けなくなって。

        高崎達之助という立派な方がおりまして、連隊が私に、この人に話してくるよう言うんです。その方(高崎さん)に知恵を貸してもらってお願いしてくるようにね。それで、「私たちは北の方から十数日も歩いてやっとここまで命からがら歩いてきましたけれど、高崎先生どうしたらいいでしょうか。助けていただきたい。」と言ったら、「あなたたちだけが日本に帰りたいのじゃない。

        みんなここにいる人たちは日本に帰りたい人たちばっかりだ。でもね、「私たちができることは何でもお手伝いするからお願いしたい。」と、またあくる日に行ったんです。そしたらね、「ここに400人の親に別れた孤児がいる。この孤児たちを連れて、奉天に行きなさい。そして奉天に着いたらまたそこでお願いして、列車に乗って葫蘆島まで行ってくれ。」と。こうして約束をしたんです。

        兵隊は13人もおりましたので、すぐにトラックを持ってきてくれました。でも、この子供たちを収容所から集めて来たら、骨と皮だけの子供ばかり。少しは配給してくれましたが、乾パンがね、袋いっぱいだけ。それだけでは生きていけないのでね「水をたくさん飲ませてください。」と言われました。

        それで私も言うとおりにして400人の子供を兵隊と一緒にあずかって列車に乗って無蓋車に乗せました。そして葫蘆島に行きました。奉天まで行って、また瀋陽まで行って、そこから葫蘆島に行くわけですが、その間一週間以上あったんです。子供たちは10歳以下の子供たちでした。親に別れた孤児でしたが、大きい子供たちはみんな言うことを聞いてくれて、乾パンを配ってくれたり、お水を配ってくれたり、お手伝いしてくれました。

        そして葫蘆島に着いたんです。それが8月の12・3日ごろだったと思います。アメリカの兵隊が来てね、葫蘆島の収容所へ連れて行ってくれました。

        子供たちも列車の中で、何人もなくなりました。そして8月15日に葫蘆島から乗船しました。大きなアメリカの船が来ましてね、それに子供たちを乗せました。

        葫蘆島に来て半月くらいは収容所にいましたが、アメリカの人たちが乾パンだとか重湯のどろどろのようなものをくれました。アメリカの船で日本の船ではなかったのですが、日本の旗を揚げていたもんで、みんな日本の船が来た来たと、喜びました。

        それから博多に上陸したんです。厚生省の人が大勢出てきて子供たちを預かってくれまして、「ここでみんなお別れだよ。元気を出してね・。」と言って別れました。

        で、厚生省の人に「この子たちはこれからどこへ行くんですか?」と聞きましたら、それぞれ京都とか、収容所のあるところへ行ってもらうんだ。」と。体の弱い子がたくさんおりましたが、私も自分のことを考えなくてはならなくなって、そこでハッと気づいたのが故郷のことでした。

        「ああ、私も故郷があるんだ。一日も早く故郷に帰らなくては。」と思って、厚生省の人に切符をもらって、汽車に乗って泰阜(やすおか)村に着いたのが、昭和21年8月18日でした。泰阜村の「門島」という駅に着きました。夜10時ごろだったので近くのおうちに泊めてもらったのです。そして朝早くに山道を登って行ったら、同級生が下りてきて「多鶴さん、あなた一人で帰ってきたの?ほかの人たちはどうしたの?」って聞かれたの。それから母の親戚実家に行きました。

        やはり日本もその時大変でした。食べる物もなかった。満州の方がよかったくらいの食べ物で。でもみんな「よく帰って来れたな。みんなはどうした?」って。もう言葉が出なかったです。村中のみんなの評判になってね「多鶴さん一人で帰ってきた」ってね。村長さんが来てくれて「どうか体育館に来てくれて、遺族の皆さんにお話をしてほしい。」と。それで、二か所に集まってもらって当時のお話をしたんです。

        満州へ行くときは元気だった団長さんが「この惨事をどうか一日も早く故郷に伝えてほしい」といった言葉を、私思い出してね、大勢村民の皆さんが集まったところでお話申し上げたんです。

        でも私はこうやって生きて帰ってきたけれど、大勢の人が亡くなった。私は、亡くなった人に対して一人生きていることが申し訳ないという気持ちで。でもね、必死で故郷があることを忘れずに帰ってきました。そして役場に行きましてね、そこでも皆さんにご挨拶して。昭和21年の8月ですからまだまだみんな帰って来ていない時ですから。

        今、皆さんにこうやってお話しできることはね。戦争ということはね、本当に悲惨なことですよ。もう二度と日本が戦争をするようなことがないように。

        最近皆さんが「戦争が始まるね」と言うもんで「また元に戻って始まるかもしれないで」と言うもんで「そんなことないと思うよ。もう本当に日本が戦争なんかしたら大変なことになるで、戦争だけはしてほしくない。」と言います。私は常々そのことをね、思っております。みなさまも同感だと思いますが。

        だから今、生きて帰って来た一人としてこういう話ができるということは、ひとつだけしかない命を大事にしていかなくちゃいけないと思うからです。私、88歳になりました、自分でも自分の年を忘れちゃうくらいなんですよ。神様が守ってくれたのかもしれないと思っています。

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         「満蒙開拓平和記念館」で入手した証言集

         多鶴さんを始め、ほかの体験者の皆さんの手記も掲載されている。




        こうして多鶴さんは1時間あまりお話しされたが、最後の質問時間も、さらにはその後の個人的なカメラ撮影のお願いまで、ずっとお立ちになったまま。凛とした姿勢で応じてくださった。

        心血を注がれた多鶴さんのお話。そのひと言ひと言が重く、生々しく胸に迫った。


        人間の命よりも先に、国を守ることばかり考えている時の政治家たちにもぜひこの、多鶴さんの心からの声に耳を傾けてほしい。



        「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて(4)

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           「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて (4)


          「記念館」ではさらに、語り部中島多鶴さんのお話をお聴きした。

          録音を聞き返し要約しようと思ったが、多鶴さんのお話はどのエピソードも貴重なものばかり。語り口もなるべくそのままで、ほぼ全文以下に掲載させていただくことにした。


          まず、当日配布された資料の中に、中島多鶴さんをご紹介する文面があったので、一部引用させていただく。

          【プロフィール】

          1925年(大正15)7月下伊那郡岐阜村に5人姉弟の長女として生まれる。

          1940年(昭和15)一家7人で三江省樺川県大八浪岐阜村開拓団に入植。

          1945年(昭和20)8月、日本の敗戦を知らず22日間の逃避行を続け、9月          はじめに方正県の収容所にたどり着く。母や妹との別れや病気を乗り越え、
          翌年8月に引き揚げ船で帰国。

          戦後は看護婦、保健師として働きながら、多くの残留孤児・残留婦人の帰国のために活動する。本やテレビなどで何度も紹介され、満蒙開拓の歴史を語り継ぐ第一人者として現在も活躍中。


          語り部 中島多鶴さんのお話

          昭和13年、14年頃、農村は貧しかったんです。お米もとれないし大変な時代でした。私も子供心に覚えておりますが、お麦が半分、お米が半分のごはんをいただいていました。そのような時代でした。

          私は高等科2年を卒業した年に満州に行ったのですが、あちらには学校もできて非常にいい所だと父も言うので、希望を持って行ったわけです。行った場所は北満。今は黒竜江省ですが、当時は三江省と言いました。第八波(タアパラン)開拓団に入植したのですが、千人ぐらいの人が5回ぐらいに分けて日本海を渡り、船に乗って行きました。

          父は、向こうに行けば女学校も専門学校もあるし、ハルピンにはいろいろな学校があって上の学校に行けるよと言ってくれました。日本にいてはお金がなくて上の学校に行けないので、それは嬉しいと、そのことだけが頭にありました。

          そして、入植したのが3月下旬。そこには原住民の人が3万人住んでいました。今では中国人と言いますが当時は満州人の方です。朝鮮人の方も相当の数住んでいました。私たちは中国の人たちの住宅を空けてもらって・・というより、日本人は強いもんですから、追い出す形になりました。私は「かわいそうだなぁ」と思いました。原住民は子供を連れてね、ぞろぞろと行くんですよ。その人たちに後で「どこへ行っていたの?」って聞いたら「1年間、親戚の人やお友達の所においてもらっていた」と言っていました。そのようなことを日本人はしたんですよ。

          今考えてみるとね、彼らは日本人の言うことは何でも聞いてくれました。農業をするにしても中国の人の手を借りないとできないのです。日本の農業とは違うので苦力(クリー)という使用人を最低でも二人は使ったんです。馬や牛も向こうの人でないと使えなかったので、教えてもらって農業をしました。肥料もいらないし、お米もとれる。作物は何でもよくとれました。氷点下30度ぐらいにはなりましたが、中国の人たちのおかげで農業ができたんです。

          学校も、青年学校もでき、みんな勉強しました。5年6か月は平穏に暮らし、日本にいるみなさんも呼んであげようかという声もちらほら出るようになりました。

          そんな時のことです。昭和20年8月7日、根こそぎ動員ということで17歳から45歳までの男手は全部兵隊にとられたんです。召集令状が来て父も行きました。

          父はその時、門の所で言いました。「これからどうなるか分からんぞ。みんな上の人の命令を守って団結しておるように」と。残った私の家族は母と私、妹3人と弟でした。一番下の妹が2歳。私が16歳でした。

          話は戻って、昭和15年に満州に渡って入団して翌年の16年に、ハルピンにある「青少年義勇軍の看護婦養成」へ志願しました。そこで2年間学べば看護婦の資格が得られるということで開拓団から二人が志願して行ったんです。もう一人の方は途中病気で亡くなってしまいましたが私は丈夫でした。

          昭和16年の4月、私は青少年義勇軍の大きな病院へ入所しました。そこでは300人ぐらいの青少年義勇軍の方々が毎日軍事教練をしていました。みんな15・6歳くらいだったのですが、病気になったら入院してくるんです。

          当時の病気は結核が多かったです。故郷を離れて、病院に入院して「おかあさんの所に手紙を書いたので、出してほしい」と言う方がちょいちょいありました。重症になって亡くなっていく人もあり、「可哀そうだなぁ」と思いました。肉親に合えないまま病院で亡くなっていくんです。そして誰にも葬ってもらえず、焼かれてしまうんです。病気になって連れて来られる人が毎日ずいぶん大勢おられました。そんな入院患者が300人近くおりました。

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           語り部 中島多鶴さん


          そうして開拓団に戻ったのが昭和18年4月。開拓団の看護婦として働きました。ハルピンには医者を養成する学校もあり、そこを出たお医者さんもずいぶん開拓地に入ってくださって、一緒になって病気の人を診ました。

          みんな、なかなか気候に慣れなくて、子供が赤痢になったり胸の病気になったりしました。私は助産師の資格はなかたけれど、とにかくお産が多いので(夜でも昼でも子供がいっぱい生まれてね)私も呼ばれて行きました。そんな生活が続きました。

          そうしているうちに開拓団の方も発展していきました。5年経つといろいろなことが良くなってきました。そんな頃男の人たちの根こそぎ動員があったんです。

          その頃、飛行機が頻繁にくるようになったんです。低空飛行してくるんです。そして爆弾のような音をたてて何かを落としてゆくんです。それで、開拓民たちは「これは戦争が始まったんだ。B29が爆弾を落としているというニュースを聞いていたので、これは満州にもやってきたんだ」と。そんな程度のことしか分かりません。

          女子供、年寄りだけになっていたので「私たちはどうすればいいのか」皆目わかりませんでした。団長さんが「みなさん、ここの開拓団にいることは出来なくなるかもしれません」という情報を出したんです。そうしましたらね、周りの中国人たちがえらい騒ぐんですよ。大きな声を出してね「あ、日本人が殺される。一人残らず殺されるかもしれない」って言うんです。

          もう怖くなっちゃってね。団長さんは「8月17日ごろになったら、ソ連が入ってくるから、ここにいると殺されちゃうからここを出てください」と。それでみんな家にある家財道具はそのまんまにしました。着物も日本から送ってきてもらった物も。豚も鶏も馬も牛もいっぱいいたんですよ。

          そこで苦力が言うんですよ。「行く先も分からないのに、ここにいればいい」と。でも団長は、「ここにいたら殺される。そのうち匪賊も出るだろうし、怖い。命令通り動くんだ」と言うのです。中国人たちが馬車をしたててくれてみんな送ってくれました。そして私は「あなたちに家財道具や馬や牛はあげるから早く持って行って。でないと匪賊が来たらあんたたちも危ないよ。」と言いました。

          私は妹たちと馬車に乗せてもらって駅へ行きました。そしたら三つの開拓団が一緒だったんです。駅は黒山の人たちでした。みんな列車が来るものと思って待っていたのですが、なかなか来ない。馬車で泊まって、二日待っても来ない。三日待ってやっと来たんです。もうその時は開拓団のことは諦めました。銃声は聞こえるし、空からは爆弾を落とすし。その銃声もだんだん頻繁になってきて・・。

          そしてとなりの開拓団の団長さんが、「列車が来てもその列車には乗るな」って言うのです。そして乗らなかったんです。乗ればよかったんです。ここで運命が決まってしまったんです。もう二度と列車は来ませんでした。警察署長さんもおられたのですが、「もうここにいても命がない。取り囲まれてしまった。」と言います。

          そして、警察署長さんを先頭で北へ北へと逃避行が始まったんです。ただもう逃げるしか他に道がなかったんです。子供を負ぶったり手を引いたり、少しばかりの荷物を持って長い列ができました。その人数は「泰阜(やすおか)」だけでも700人くらいはいました。子供さんも入れてね。三つの開拓団がいたから2000人はいたと思います。一つの列がずうっと山の方まで続いたんです。


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            阿智川 (長野県下伊那郡)   
           
           多鶴さんのお話は、この後いよいよ「死の逃避行」のくだりになる。まだ半時間以上続くが、母の体験とあまりにも重なる部分が多く、何度も息を呑んで聴き入った。 (つづく)
                  


          「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて(3)

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             「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて (3)

             

            「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて、もう一つ衝撃を受けた資料がある。それは「棄民の史実を伝えるパネル展示」。


            つまり、敗戦後の満蒙開拓団が「国から棄てられた」事実を示す貴重な資料だ。

             

            記念館の寺沢専務理事は、「敗戦と逃避行」というコーナーに掲げられたこのパネルについて、当時の満蒙開拓団の状況を交えながら以下のように分かりやすく解説してくださった。

            「敗戦後の満州の開拓地は、男たちが根こそぎ動員で兵隊にとられていたので、残されたのは女と子供・老人ばかりだった。そこへソ連軍の侵攻と匪賊(実際はほとんどが、自分たちの土地を日本人に奪われた現地の中国人農民だった)の襲撃に遭い、逃避行が始まる。そんな中、もうこれ以上逃げ切れないと集団自決した開拓団もあったが、何とか逃げ延びた団もあった。逃げ延びた開拓団は、昼は山の中に隠れ、夜に移動した。すると子たちが怖くて泣く。子供が泣くと敵に見つかるから「殺せ」と言われる。仕方なくわが子を手に掛けた人、中国人に預けた人、山の中に捨てた人があった。そういった子供たちが中国残留孤児になった。


            そんな中でかろうじて生き延びた日本人が、終戦の年には帰れなかった。その理由がある。それは、当時日本政府が出したこれら二つの文書が原因だった。」


            「居留民は出来る限り定着の方針を執る」

            【1945年8月14日日本外相3カ国宣言条項受諾に関する
             在外現地機関に対する訓告】

            「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキ
             モノトス」

            【1945年8月26日大本営参謀「関東軍方面停戦状況ニ関
             スル実視報告】


            まず1つめは、終戦の年の8月14日に出されたもの。ポツダム宣言を受けた後のものだが、日本の外務省が出した文書。


            「居留民は(在外邦人は)できうる限り定着の方針をとる」
            つまり現地の邦人は現地で生き延びよ・・という意味だ。


            もう一つは、同じく昭和20年の8月26日に大本営が出した
            文書。

            「満鮮に土着するものは(満州や朝鮮半島に土着する日本人は)日本国籍を離るるも支障なきものとす」(日本国籍を離れてもいいから現地で頑張って生き延びよ)と言っている。


            開拓団も含めて当時200万人いたと言われている日本人が、終戦の年満州に残って冬を越さなければならなかった。実はその冬の方がたくさんの人が亡くなっている。開拓団27万人渡ったと言われているが、そのうちの8万人が現地で亡くなっている。そのうちの7万人がその冬20年から21年の冬を越せなくて餓えや病気で亡くなったのだ。弱いものから順に亡くなったというのが現状だったそうだ。


            実はうちの一番上の兄さんも、わずか1歳の命を、その冬が越せずに長春の避難民収容所で亡くなった。
            (以上、寺沢秀文氏の解説より)


            厳寒の満州、チチハル避難民収容所を詠んだと言う、次の母の俳句を思い出す。

             

            餓ゑし子に餓ゑゐて黍をみ食はす

               (かじか)
            む子抱き    (ぬく)めゐて    (うえ)きざす

            オンドルのしんしん冷えて生きており


            月が出て死んでも胸に 俘虜   (ふりょ)の文字

            無雑作に 屍体   (したい)が積まれては凍り

            子を焼いてしまへばほっと冬の星

            みなし子に夕焼け満州国は亡し

             

             

            昭和20年から21年にかけての冬(時に零下40度近くまで下がったと言う北満の長い厳冬)を越さなければならなかった開拓民たち。

            その中に母も、そして私の姉(母は戦後再婚したので実際は父違いなのだが)の清美もいた。かろうじて越冬し母子ともに引き揚げてきたが、清美は三か月後に亡くなった。死因は栄養失調。さらに引き揚げ船の中で罹った百日咳が原因で最期は苦しみもがいて逝ったそうだ。

             

            もはや極限状況にあった母たち開拓民たちを、祖国と切り離してしまって、「土着」「定着」せよと言う。こんな血も涙もないような当時の日本政府に怒りを感じる。このような文書が出されていなかったら、引き揚げはあんなにも遅れなかったろうし、間違いなく清美たちは死なずに済んだろう。

             

            これらの文書は以前、坂本龍彦氏の「孫に語り伝える満州」で読んだことがある。でも、それは著作上。この記念館のすごいところは、このような、国にとっては不都合な史実をしっかり明記しパネル展示されていること。何よりもそのことに感動した。(つづく)


             

            009.JPG
              
            「満蒙開拓平和記念館」正面






            「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて(2)

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              「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて (2)

               

              記念館の「新天地満州」のコーナーに大きく掲げられた「満蒙開拓団入植地図」。臥せっている母にもぜひ見せてやりたいと思ったが、あいにく館内は撮影禁止。

               

              ところが、受付でこの地図の縮小版が販売されていた。良かった!迷わず購入。母への最高のお土産となった。


              この貴重な地図は、帰洛後老人ホームの母に見せに行った。すると母は、もうほとんど見えなくなった目を大きく見開き、自ら身を置いた開拓地(興亜開拓団)あたりを指さした。そして、当時甘南県に入植した十箇団の名前をすらすらと口にした。
               

              001.JPG 

               記念館で購入した「満蒙開拓民入植地図」
                入植した興亜義勇隊開拓団あたりを指さす母

               

              確かに地図上の斉斉哈爾の北方には、北から太平・呉山・大和庄内・興亜・興隆・協和・東陽・義合・新発・東三河郷の十箇の開拓団が、母たちの興亜義勇隊開拓団を中心に集結するように配置されている。

               

              さらに母は、地図を手にしながら、興亜開拓団の北隣、呉山開拓団が目の当たりで崩壊した話を語り始めた。物心ついた頃から何度も聞いた話ではあるが、具体的な位置関係を地図で確認しながらなので、今回さらに説得力を持って胸に迫ってきた。

               

              敗戦直後、ソ連軍や匪賊の襲撃で開拓団は相継いで崩壊した。一望千里の満州で、一つの開拓団が目の前で一気に滅んでいく様は、まさに阿鼻叫喚の地獄図だったそうだ。生涯原色で目に焼き付いて離れないと言う。
               


              koua.jpg 
              母たちが入植した甘南県(母たちの十箇団の名前も確認できる)
               【「満蒙開拓民入植地図」より】

               


              私はこれまで、これほど綿密に開拓民の入植分布状況を網羅された地図を見たことがなかった。これを機に母がまた少し語り始めてくれたのも嬉しい。

               

              記念館のご尽力に改めて感謝!

               

              次回は、この館でもうひとつ衝撃を受けた資料「棄民の史実を伝えるパネル展示」について触れたい。(つづく)


               


              「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて(1)

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                「満蒙開拓平和記念館」を訪ねて (1)

                2014年3月7日〜8日の二日間、「方正友好交流の会」企画
                による「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる長野県下伊那の旅に参加した。

                連日、抜けるような晴天。春光に輝く雪嶺がまばゆかった。澄みきった早春の山の空気とピリッとした寒さも心地よく、快適な旅だった。

                kinenhi.JPG
                  開拓記念碑 (南アルプスを背に 長野県下伊那郡松川町) 


                1日目は、記念館の見学と寺沢秀文専務理事の解説、語り部(中
                島多鶴さん)のお話。夜は湯多利の里「昼神温泉」に泊まり、夕食交流会は3時間近く盛り上がった。

                2日目は、中国残留孤児の帰国に生涯を捧げた故山本住職のお寺
                、長岳寺見学と、現住職さんのお話。そして、戦後入植して開拓されたリンゴ園とワイナリーの見学と続いた。


                行く先々でたくさんの方のお話を聴き、心が揺さぶられたり感涙
                にむせんだり・・。胸がいっぱいになり、頭の中も飽和状態のまま帰路についた。企画者、講師、参加者すべての方々に心から感謝している。これからゆっくり録音したテープを聞き返し、その時々に受けた感動を記しておきたいと思う。

                まずは、「満蒙開拓平和記念館」の感想を少し。


                昨年の4月の開館当初から、ぜひ訪ねたいと思っていたこの施設
                は、予想以上に充実した記念館だった。専務理事の寺沢秀文さんがコーナー毎に立たれ、私たちが追体験できるように分かりやすく解説してくださった。おかげで、貴重な展示資料を見ながら、満蒙開拓団の苦難の歴史を、被害・加害の両面からつぶさに知ることができた。

                 manmou kan.JPG
                 満蒙開拓平和記念館 (http://www.manmoukinenkan.com/

                寺沢さんは、お父さんが満蒙開拓団として大陸に渡られ、私が母
                から寝物語に聴かされてきたように、小さい時から当時の話を聴いてこられたそうだ。私は母個人の満州体験を本にして残しただけだが、彼はこの重い歴史そのものを、後世に伝えようと尽力されている。しかも、当時の国の加害の史実も「正確に」伝えようとされ、心から敬服する。


                記念館には、満蒙開拓団関係に特化した貴重な資料が主に時系列
                で展示されている。

                まずはじめに目を引いたのは「新天地満州」のコーナーに掲げら
                れた壁いっぱいの「満蒙開拓団入植地図」。


                私は、母たち興亜開拓団の「大陸の花嫁」が辿った道を指でなぞ
                った。入植までの道のりと、引き揚げの死の逃避行の道のり。とてつもない距離であったことが確認できた。そしてそれ以上に、旧満州全土に隙間なく散らばっていた開拓団の入植分布に戦慄を覚えた。

                「大陸の花嫁」として渡った母をはじめ、日本の大陸侵
                略の先兵たちがこれほど広範囲に配置されていたことが一目瞭然に了解できた。 
                 ( つづく )

                ireihi.JPG
                 記念館東側にある慰霊碑 
                      「旧満州の地に眠るすべての御魂に捧ぐ」とある。


                 


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                俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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