母が遺してくれたもの(4)

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     「戦争を拒む未来」
     
    旧実家の片付けはなかなかはかどらない。思いがけず懐かしい写真が出てきたり、若かりし頃の自分の日記に顔を赤らめたり。すぐに手が止まってしまう。
     
    母の遺した手記や著書を読み返し、少しずつこのブログにUPしているが、こちらの方はなかなか奥が深くデリケートな内容もある。慎重に読み込み、後世に語り継ぐべきものを選んでいきたいと思っている。
     
    今回は、41年前(1985年発行)のもの。
     
    戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会/編
    「戦争を拒む未来」

     
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    「はじめに」として飯沼二郎氏の序文がある。最後の一段落を以下に引用させていただく。
     この本は、人から頼まれたものでもなく、全く自主的に、しかも原稿料をもらうどころか、逆に1ページ6千円を払ってまで、自分の戦争体験を子孫に伝えようとした方々の39編の文章を集めたものです。こういう方々が、戦後40年もたった今日、しかも政府やマスコミの反動攻勢のなかにあって、なおかつ全国に39人もおられたということに、私は大きな驚きと喜びと誇りを感じます。「戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会」の方々が、「丸木位里・丸木俊原爆の図をみる会」の活動の一環として、このような本をつくって下さったご努力に心から感謝するとともに、これからもご一緒に、このような企てをつづけていきたいものとおもっています。

    「第一章 往還―破られたもの―」
     
    この中に母の手記4編が掲載された。以下に最初の一編のみを記す。
     
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     わが子への追悼記   井筒紀久枝

    昭和初期から終戦直前にかけて、満洲開拓は五族協和を理想にした国策として実施されたもので、国民の多くは将来の王道楽土を、その沃野にゆめみて参同したのである。私もその一人であった。当時の教育によって培われた私たちの純真なゆめや、理想は結局「中国侵略」と、いわれるものなのであった。
     
     一、お 産
     
    私はそのとき、暗いランプの灯影の下で五分おきぐらいに襲ってくる陣痛に喘ぎながら考えていた。この陣痛がきてもう三日になる。私もお腹の子も苦しんだあげく死んでしまうのだろうか?あの牛のように・・・。
    昭和18年3月。私は自分の青春を賭けて大陸の花嫁に応募した。見ず知らずの人を夫に定め、はるばる北満の
    果てまで行ったのである。電灯もなく、病院もない医者もいない開拓地。冬は氷点下30度、40度の北満であった。

     
    男たちは、大陸にまだ馴れきらぬ花嫁たちに、広い耕地と、数多くの家畜を残し、その上、自分の子を孕ませて戦地へいった。
     
    私は、乳牛5頭、馬5頭、豚30頭を飼育しなければならなかった。牛は次々仔を産み、乳を出した。ある朝、飼葉を与えに牛舎へ入っていくと、予定日を過ぎた牛が苦しんでいた。私は先生(農事兼畜産指導員)を呼んだ。牛は4本の足を折り曲げて座りこみ、首をもたげて苦しんだ。
     
    先生は「逆子だ、下へ押しだすようにして擦ってやれ」と私に指示した。私は両手に藁を掴み腹の仔が無事産まれるように祈りながら擦ってやった。
     
    私の胎内にいる子も、ときどき動いていた。
     
    やがて日も暮れかかろうとする頃苦しみぬいた牛は死んだ。一日中擦っていた私の顔を悲しげに見つめ、その大きな目から涙を流したと思うと「モー」と一声啼き、もたげていた首がガックリ垂れた。腹の仔も動かなくなっていた。
    その後まもなく、私の胎児も逆子ではないかと思うようになった。それは頭と思える丸くて固いものが腹の上部にあったからである。頼みとするのは、その頃日本から来たばかりの看護婦さんだった。しかし未婚者で私と同い年の若さだった。
     
    私は、お産で死んだ牛の顔を鮮烈に思い浮かべながらも、いつかうとうととしていたらしい。広い草原を一目散に走っていた。早く母のいる日本へ帰ろう、母のもとへと果てしない昿原を走っていた。と、「ねえさん」「ねえさん」と遠くで私を呼ぶ声がした。それでも私は走っていた。近くまで迫ってくるその声にふりかえった。そのとたんに気がついた。
     
    「眠ったらあかん」「眠ったらダメよ」
     
    いつのまにか、私の仲間が枕元に来ていて私の頬を叩いているのだった。
     
    故郷を離れてきている私たちの絆は、肉親以上のもので、お互いに「ねえさん」と呼び合い、親しみ、助け合っていたのである。
     
    「ポン」と音をたてて破水し、羊水が飛び散った。それから数時間・・・。
     
    「あっ、足が・・・」と、うつろに聞こえた。私は一生懸命いきんだ。ねえさんたちが「頑張って」「頑張って」と、私の両手を掴んでいた。何とも言えぬ痛みがいきみを伴った。そして力が抜けた。
     
    昭和19年8月20日のことである。
     
    産まれた小さな女の子は、清く美しく育って欲しいという願いから清美と名付けた。
     
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    清美は、敗戦後母の背中で命からがら帰国できたが、食べるものも薬もなく栄養失調で2歳半の命を閉じた。
     
    清美は、まわりの大人たちのように戦争に加担することもなく、文字通り「清く美しい」まま亡くなった。

    同じ母親から生まれてきた女の子でも、私は戦後の平和な世の中に生まれ、何不自由なく心から笑い歌い、美味しいものを食べ、恋愛をし、子供を産み育てる喜びも味わってきた。一方、戦争の真っ只中に生まれた清美は、苦しんでやっと生まれ落ちたら逆子。生後も、すでに父は戦場に取られ、1歳で敗戦。その後は地獄のような苦しみ。怖さと寒さと痛みと飢え、渇き。そして最後には死が待っているだけだった。

    これほど理不尽なことはない。戦争は、同じ人間の生を、これほどまで悲惨にしてしまう不条理なものなのだ。改めて実感した。
     

    「愛の光感謝の集い」

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       「愛の光感謝の集い」
       
      2016年4月16日、京都東山の高台寺に立つ「アイバンク愛の光碑」(慰霊碑)前において、「感謝の集い」が開かれた。
       
      ご丁寧なご案内を頂戴したので、私は娘を誘い、献眼者の遺族として参加した。主催は「公益信託アイバンク愛の光基金」。「案内文」によると、昭和57年に厚生省の認可を受け設立されたボランティア団体だそうだ。
       
      昼食会を含めて約2時間。とても充実した体験だった。
       
      まず黙祷。つづいて関係者のご挨拶。そして、母を含めた昨年一年間の献眼者の名前が披露され、名簿が「アイバンク愛の光碑」に収納された。碑の中には、これまで献眼された方々の芳名禄が納められ、そこに母たちの名前が加わった。
       
      折しもこの日の未明、熊本では大きな地震があり、ラジオから絶え間なく流れる地震速報に心が痛んだ。黙祷と献花の時、被災者の方々への思いも祈りに込めた。合掌。

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      「アイバンク愛の光碑」
       
      慰霊碑を囲むように葉桜や若楓が美しく、松の若緑や石楠花もまばゆいばかり。何より陽射しと風が爽やかだった。母も一緒に緑の風になっていたのかしれない。
       
      最後は遺族とアイバンク関係者による献花で、式の部は終わった。
       
      式に続く昼食会では、他のご遺族の方々とゆっくり歓談できた。実際に献眼するまでは、遺族間に微妙な意見の食い違いや心の葛藤があったというお話には共感できた。また、献眼を受けたことで目に光が戻ったというご婦人のお話には感動した。本当に貴重なひとときだった。
       
      アイバンク組織移植コーディネーターの女性 I さんのお話によると、「日本では移植を待っておられる患者さん方に対して、献眼してくださる方は、まだまだ足りない状態」だとのこと。
       
      そんな中で、母が献眼し、私たち家族もその遺志を尊重して協力したということで、このような会が設けられたとのことだが、恐縮至極である。

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       高台寺
       
      昨秋母が亡くなった数日後にいただいた、I さんからのお手紙を思い出した。特に最後に綴られた以下の言葉には涙があふれた。
       

      ・・このようにご献眼くださった目は、第二の人生を歩み始めました。これから、移植を受けた患者様と共に、たくさんのものを見て、たくさんの経験をされることと存じます。

      井筒キクエ様の角膜に映る世界が、戦争の光景ではなく、平和な世界であるように、私には何ができるのか、「大陸の花嫁」を拝読しながら深く考えさせられました。


       I さんの、この感慨深いお言葉を、そのまま私自身にも置き換えてみた。
       
      「移植された母の角膜に映る世界が、戦争の光景ではなく、平和な世界であるように、私には何ができるのか」・・と。心に刻みつけた。
       

      母が遺してくれたもの(3)

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        「孫たちへの証言」

        旧実家の片付けに来るたびに、母の遺した手記や著書を読み返している。

        新風書房発行「孫たちへの証言」第12集(平成11年発行)
                   〜今、書き残しておきたいこと〜

        この第12集のテーマが「今、書き残しておきたいこと」。
         
        では、第1集から第11集にもそれぞれのテーマがあったはず。パラパラ見てゆくと、最後のページにあった。

        「孫たちへの証言」
         全国公募の中から選び抜かれた玉編の証言集

         
         第1集「私の八月十五日」
         第2集「激動の昭和をつづる」
         第3集「そのとき、私は・・」
         第4集「戦争、それからの私たち」
         第5集「いま語り継がねばならぬこと」
         第6集「こんなことがあっただョ」
         第7集「なんとしても語り継ぎたいこと」
         第8集「50年前のあのことこのこと」
         第9集「次代へ語り継ぐ私の戦争」
         第10集「心にしまいこんでいたこと」
         第11集「今だから語れること」

        ざっとテーマだけを見ても、戦中戦後を生き抜いた方たちが、孫たちの世代に向けてぜひこれだけは書き残したい、という熱い思いが伝わってくる。
         
        編集者、福山琢磨氏(新風書房代表取締役)の「あとがき」によると、1018編の中から98編が採録された、とある。母の手記もその1編として掲載された。
         
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         国策にそい“大陸の花嫁(興亜開拓団)”になった私
                      京都市 井筒紀久枝 (七十八歳)
           
        昭和十八年四月、国策に従い「大陸の花嫁」を志願した私(22)は、写真も見ず、見合いもせず、第一次満蒙開拓団青少年義勇軍名簿の中から一人を夫に決めて渡満した。

        現黒龍江省甘南県、チチハルから二百キロの奥地だった。

        甘南地区には第九次として入植した熊本(東陽)、福岡(興隆)、山口(新発)、愛知(三合)、茨城(義合)、山形(協和・大和)、福島(呉山・大平)、福井(興亜)と十の開拓団があった。

        福井県の義勇隊は興亜開拓団に編入された。本部は五キロ離れた位置にあった。

        義勇隊員は三十人ほどだったが十九年早々より召集令がくるようになり、私の夫も応召した。八月女児清美を出産した。母子の命が危ぶまれるほどの難産だった。

        二十年。春には義勇隊員三人、女十三人、赤ん坊八人になっていた。治安が悪く、七月には本部へ集結、敗戦は八月十七日に知らされた。

        自決を唱える興亜国民学校坂根幹雄校長に賛同する教え子や義勇隊の私たちと、団長以下の自決は二十日校舎内で決行と決まった。
         
        二十日は清美の誕生日である。私は満一歳の子にも決死の白鉢巻を締めてやった。決行の日、団長以下数人が、自決を止めに来た。その日は校長と団長の争いで終わったが、翌二十一日、教員宿舎から白鉢巻を締めた奥様(教師)が毅然として出て来られた。

        「先立つことを許してほしい。きみたちは生き延びて祖国の復興につとめてほしい」と、死出のあいさつをされた。私たちは返す言葉もなく、後ろ姿に「君が代」を歌っていた。

        六、七発の銃声を聞いたのはそのすぐ後だった。

        坂根幹雄校長(34)、みち夫人(24)、廉太郎君(4)、興次郎君(2)、坂根きくえさん(24−学校職員)、坂根いくのさん(23−本部職員)の六人だった。

        略奪と暴行の混乱の中、私たちは、昼は野菜を貯蔵していた穴蔵に身をかくし、夜は手製の槍を持って夜警に立った。毎日毎夜何人も殺されたり捕らわれたりした。そして、十月九日のことである。近くの朝鮮人数人に本部を夜襲から守ってやるとだまされ不意打ちをくい何もかも奪われ尽くし宿舎と学校も焼かれてしまった。

        生き残った男数人について女と子供と怪我人、数十人が避難したのは、福岡県の興隆開拓団だった。団長の山本実氏は、厳しい態勢の中にありながらも、興亜の生き残りを受け入れてくださったのである。ここでも自決、餓死、凍死があいついだ。

        二十一年五月チチハルへ南下した。このとき、私と同期の「大陸の花嫁」だった西沢千代子さんは、二歳のわが子満邦ちゃんを負うて二百キロの道を歩く自信がないと言って南下を拒み、興亜の十人ほどの孤児とともに火梨地(ほりで)部落へ残留した。のち、孤児たちは一時帰国、永住帰国したが、西沢母子の消息はようとして分からない。

        チチハル収容所では、伝染病が蔓延して栄養失調の体が冒され、大勢の人が死んだ。私は収容所を出て、満州人の乳母に入ったので、母子は食べさせてもらうことができた。しかし、八月二十八日チチハル引き揚げ。無蓋貨車での無理は、幼いわが子清美の体を蝕んでいった。栄養失調で痩せ衰え下痢をくりかえして苦しみながら船に乗ったが帰国三ヵ月後の二十一年一月に死んだ。その半年後、夫は栄養失調と怪我によってシベリアから復員してきた。しかし、夫婦の愛は育たず離婚した。

        のち再婚し貧困と住宅難にあえぎながら二人の子供を育てた。そして、五十年経った。「中国残留婦人の会」会長山田忠子氏(山口県)は、毎年残留婦人を数人ずつ里帰りさせている。京都で歓迎会のとき、私はモンゴルから来た人と隣り合わせた。甘南県呉山開拓団の人だった。

        「日本語よく覚えていたわね」
        「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

        東北弁が残っているのが哀れだった。

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        この手記の中にある、西沢千代子さんと満邦ちゃん母子について、母は最晩年、老人ホームに入居してからも何度も語っていた。敗戦当時は、自分たち母子のことだけで精一杯で、彼女に帰国を説得しきれなかったことを繰り返し反省していた。

        母が50年後に出逢った中国残留婦人の

        「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

         
        この言葉に胸がつぶれる。帰国まで、気の遠くなるほどの年月を、彼女はどれほどの思いで待っておられたことだろう。

        そして彼女のように、いつか日本に帰れる日が来るのを信じながら、日本語を忘れないよう、独り言だけはは日本語でつぶやきながら、そのまま鬼籍に入ってしまわれた残留婦人もあったことだろう。

        決して忘れてはいけない史実だ。

        母が遺してくれたもの(2)

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          「わが心の春夏秋冬」


          「私の墓標は本」生前、母はいつもそう言っていた。

          母の遺影の前にずらりと並べた多くの書籍・雑誌・手記・句集等々。
          一冊ずつ手に取り眺めたり音読したりしながら、少しずつ整理している。

          潮文社編集部編の「わが心の春夏秋冬」〜生命(いのち)映えるとき〜

          編集部の前書きによると、2039編の中から76編が採録され、その一遍として母の手記が載せられている。


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          生かされて    井筒紀久枝  大正10年生(京都市) 主婦


             
          オンドルのしんしん冷えて生きてをり

          昭和十八年、私は旧満州の沃野に夢を託し、「大陸の花嫁」を志願した。写真も見ず、見合いもせず、満蒙開拓青少年義勇軍の青年を夫に決めて渡満した。開拓地は北の果て、チチハルから二〇〇キロの奥地だった。遥か北西に連なる大興安嶺が薄墨色に見えるばかりの、地平線を見はるかす原野だった。

          その大地にまだ馴染むまでにもならなかった翌十九年早々、夫たちは戦争に駆り出された。そのとき、私の胎内には小さな命が芽生えていた。医師もいない、開拓地での出産だった。

          そして、昭和二十年八月、祖国の敗戦に、開拓地は阿鼻叫喚の巷と化した。殺される者、自ら命を絶つ者、餓死、凍死。みんな死んだ。

          私は、幼いわが子を抱きしめて必死に生きた。子どもが泣けば「殺してしまえ」と言われた。零下何十度の酷寒の中、唯一の暖房、オンドルに焚く燃料にも事欠き、しんしんと寒さに襲われた。そんなとき、寒さを感じるのは生きている証し、私は生きているのだ、この子も生きている。明日もあさっても、生きなければならない。私たち母子は、何が何でも生きて故国へ帰らなければならない、と心に誓っていた。

          昭和二十一年十月末、私たち母子は、栄養失調で痩せ衰えながらも、故国の土を踏むことが出来た。しかし、食糧難の時代、幼子に食べさせる物はなく、ようやく連れて帰ったわが子は、その三ヵ月後に死んだ。


          私の故郷は福井県越前和紙の里である。私は引き揚げてから、紙漉き女工に戻っていた。一年後、夫がシベリア抑留から復員してきたが、満州に憧れて結婚しただけの私は、夫をどうしても愛することができなかった。

          無一物の引揚者で、出戻り娘となった私に世間の眼は冷たかった。厳寒の紙漉きは、簀桁(すげた)が凍りつき、漉き水には氷が張る。

             
          あかぎれに紙漉く水のつきささり

          手の霜焼は乾くと割れて、あかぎれになった。越前和紙、襖紙は、漉き水の中へ肘までつっ込んで漉かなければならない。それは、冷たいというより、つきささるように痛かった。


          昭和二十九年、私は再婚して京都に住みついた。貧乏と住宅難は相変わらず私につきまとい、よその屋根裏を借りたり、バラックを借りての生活だったが、そうした中で二人の子どもが出来た。夫は週に一度しか帰って来ない長距離トラックの運転手。私は子育てをしながら内職に励み、子どもが高学年になると勤めに出た。

          そして幾歳月――。小さいながらもわが家を持つことが出来た。と、思う間もなく、成人した二人の子供は巣立っていった。今は夫と平穏な余生を送っている。

          生かされて生きてきた私。ふと出来た俳句をそのまま題名にした私の自分史は、平成五年、NHK学園自分史文学賞大賞になった。生涯誰にも語るまいと心に秘めておいた自分の生い立ちや過去を、勇気を奮って書いた自分史。それが大賞になるとは、夢にも思わなかった。題名にした俳句は、私の生涯、心に残る思い出の句である。

            
          生かされて生き万緑の中に老ゆ


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          以上、この手記で母は、たった3句を自句自注しながら自分の半生を語っている。

          旧満州からの引き揚げ時代の一句
          「オンドルのしんしん冷えて生きてをり」
          からは「いのち」の力が、

          紙漉き女工時代の一句
          「あかぎれに紙漉く水のつきささり」
          からは「いのち」の疼きが、

          そして、ようやくたどり着いた平穏な晩年。その感慨を詠んだ一句
          「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
          からは「いのち」の実りが伝わってくる。

           

          母が遺してくれたもの(1)

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            自分史「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
             
            立春を過ぎてもまだ寒さは厳しい。
            でも、陽射しだけはすっかり春になった。

             

            「一陽来復の春」というのか、キラキラした春の陽射し
            を浴びると、何故か気持ちも明るく前向きになってくる。

             

            空き家になった旧実家を片付けながら、母の遺した著書や
            原稿などを整理し、次々と祭壇に並べている。

             

            生前母はいつも言っていた。
             

            「私は墓も位牌も要らない。私の墓標は本。」
             

            その希望通り実行しているわけだが、「お墓」については
            まだ検討中だ。母の亡骸は目下京都府立医大に「献体」中
            でお骨返還は3年後とか。それまでにゆっくり考えたらいい
            と思っている。

             

            そんな中で、母の遺した懐かしくも貴重な資料がいろいろ
            出てきた。

             

            まずは、母が70歳になって初めて書いた自分史
            「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
            について紹介されたNHK情報誌「ステラ」(1994年)
            の記事。


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            受賞パーティーで談笑する嬉しそうな母の姿も掲載されている。
            母が一番輝いていた時代だ。



            記事の最初の部分だけ書き写してみる。
             

            自分史文学賞大賞受賞
             「生かされて生き万緑の中に老ゆ」


             NHK学園では、創立30周年を記念して「自分史文学賞」の作品募集をしましたが、応募540点の中から、審査委員長のノーベル文学賞受賞の大江健三郎先生ほかの審査によって、大賞に選ばれたのが、京都
            市にお住まいの井筒紀久枝さん(現在73歳)の「生かされて生き万緑の中に老ゆ」という作品でした。
             井筒さんは福井県に生まれ、母と義理の父と貧困の中に暮らし、小学校卒業と同時に、紙漉きとして働き、昭和18年、大陸の花嫁として当時の満州に渡りました。敗戦で赤ん坊とともに生死をくぐって引き揚げ。
            その後も苦労の連続でしたが、ずっと続けていた俳句と短歌の成果が表れ、井筒さんの歌が昭和43年の「宮中歌会始め」の入選の栄に浴しました。
             その後、NHK学園の「文章」「自分史」の講座で学び、そのリポートとして自分の体験を切々とつづり、それをまとめたのが、この作品です。
             NHKでは去年8月、ラジオの深夜放送「ラジオ深夜便」でこの作品を15回に渡って朗読し紹介しました。この放送が大きな反響を呼び、企画をしたNHKラジオセンターの山口剛ディレクターと朗読をした
            日野直子アナウンサーを驚かせました。あまりの反響に、そのあと12月(15回)と今年の8月(18回)と重ねてこの作品を朗読しましたが、またまたたくさんの新しい感動の電話や手紙が寄せられました。

            (後略)

            この後、母の作品を朗読してくださった日野アナウンサーのインタ
            ビューが続く。

             

            そして、最後の頁には審査委員長の大江健三郎氏の嬉しいお言葉も。

            自分史文学賞の審査にあたった大江健三郎先生の言葉
             

             ザックバランに矛盾もくみこみながら、それとして、強い庶民の個性をつらぬきうる「自分史」の書き方が工夫されているのである。戦争と戦後、旧満州と日本、そこでなんども苛酷な運命を生きながら、決してくじけぬ女性の生命力と生きる知恵、努力ということ(楽天的な信頼)さえ分けもたせる「自分史」。僕は具体的に「自分史」の本当のかたちをひとつ、教えられた。


            ありがたいお言葉。本当に名誉なことだったんだなぁ。

            母は、この作品を世に出したことで、さらに次の課題に取り組む
            ことになる。それは、赤裸々に吐き出したはずの自分史でも、
            まだ書ききれなかった「戦争体験」だった。


            母が「戦争体験」を死ぬまで語り書こうと決心したきっかっけとなった
            この作品

            「生かされて生き万緑の中に老ゆ」

            http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_2%20ikasarete.htm

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            これを機にもう一度じっくり読み直してみたい。
             


            立春大吉

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              母が永眠して4か月が過ぎた。

              脳梗塞に倒れ5年間の闘病生活を共に過ごしたが、2度目の脳梗塞で
              意識を失う寸前まで母は戦争体験を語ってくれた。


              母が要介護状態となって15年の月日は、母にとっても介護をする
              私にとっても結構しんどいものだった。

              でも、その間、母から娘へ、そして祖母から孫への戦争体験の語り継
              ぎは確実に行われた。バトンを受け継ぐ時間としての15年間はまだ
              まだ足りないほどだったかもしれない。

              長年の闘病生活から解放された母の死に顔は実に安らかだった。
              そして、長年の介護生活から解放された私は、身も心も開放され、
              安まるはずだった。

              ところが、自分でも不思議なほど喪失感と虚脱感に襲われ、母の遺影
              には向えても母の遺した著書や手記には向えない心境が続いた。

              それほど私にとって母の存在は重く、大きなものだったということを
              改めて痛感した。

              でも、百箇日が過ぎやっと春がやって来た。「立春大吉」♪

              ようやく少し気持ちの余裕が出てきた。
              これからまた少しずつ母の事績を顕彰してゆきたい。



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               母の遺した著書・句集・手記が掲載された書籍・手書きの原稿等々。

               

              母逝く

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                 母 逝 く
                 

                10月9日午前8時7分、母が逝った。


                長患いの末、とうとう旅立ってしまった。
                享年94歳。

                 

                母の遺言どおり7人だけの家族葬を済ませ、京都府立医大とアイバンクに献体・献眼した。

                 

                母の亡骸には、母自身が縫った浴衣を着せ、母直筆の般若心経で埋められた襦袢を被せた。これも母の遺言どおりの死に装束だった。


                 

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                入院93日間、1日わずか100kcalの点滴500佞韮苅影間、さらに200佞妨困蕕靴藤隠影間も頑張り抜いた。

                母は亡くなる前日まで、しっかり手を握り返し、私の目を見つめ涙を流した。

                 

                最後、母の身体は22・3圓泙覗蕕産戮蝓骨に皮膚が被さっただけのようになってしまったが、瞳だけはいよいよピュアになっていった。
                 

                主治医の先生に「神懸かり的だ」と驚嘆させるほどの母の生命力。正直、感動した。


                「人間の身体は、こんなになっても生きよう生きようとする力があるんや。
                 だから命は大事にするんやで・・。」

                 

                母は、身をもって教えてくれたような気がする。

                 

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                長い長い闘病生活、本当にお疲れ様でした。


                そして、最後まで命の大切さを教えてくれて、ありがとう!


                合掌。

                 


                戦後70年

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                  母の手記を読む(4)

                   

                  紀久枝母が入院して今日で58日目。

                   

                  紀久枝母との、本当のお別れが近付いた。延命治療である栄養チューブを外し、母本人が強く希望していた「自然死」に近い形にしてもらえるよう、主治医と話がついたからだ。

                   

                  今、母は鼻からの管が外され、最低限の点滴治療だけで、ゆっくりした呼吸と穏やかな表情で死期を待っている。

                   

                  私は当初、ソーシャルワーカーさんに相談しながらも辛くて悩みあぐねていた。でも、母が25年間書き溜めた手記を読み終えて、やっと母の延命治療を断念することができた。この決断には、やはり母の手記の力によるところが大きい。

                   

                  80代に入った頃、母は急激に体調を崩した。「要介護2」の認定を受けながら、とにかく這ってでも自分のことは自分でしようとし、毎日ワープロに向かった。虫眼鏡で文字をとらえ、人差し指でキーを打ち、日々持てあますような我が身を写生した。

                   

                  以下の手記は母が87歳で、やっと文字を書けた最後の頃のもの。日々の暮らしを日記の形にしている。

                   

                   

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                  「老いゆく日々」   井筒紀久枝 


                  (NHK学園文章教室 2008年 投稿作品)


                   

                  十一月 六日


                   今日は朝から食欲もなくしんどい。夕飯のとき夫が

                  「少しでも食べておかなあかん」

                  と、すすめるので無理して夫の一口ほどを食べた。

                   明日の朝の仕度をしておこうと思い、薬缶に水を満たしコンロにかけたとたん、ふらっとふらつき仰向けに倒れてしまった。冷蔵庫で頭を打った。


                   「頭、どうもないか」
                  夫が言った。頭はどうもないらしいが立てない。起こしてもらって這いながら居間へ行った。腰の骨が横腹へ突き刺さったように痛い。寝させてもらったが吐く。トイレへ吐きに行こうと思うのだが歩けない。這いながら夫のゴミ入れの中のゴミを放り出してその中へ吐いた。一晩中眠りもせず吐き続けた。


                   「救急車を呼ぼうか」
                  夫は言ったが、自然死を望んでいる私は病院へは行きたくなかった。


                   明日は陽子が来る。陽子に看てもらおう。


                   

                  十一月 七日


                   朝になっても吐き気は治まらなかった。


                   今日は金曜日。陽子が来る日だ。夫は陽子に知らせている。お粥を炊いて昼頃持ってきてくれた。重湯のようなお粥を二匙食べた。今度はどうにか治まった。


                   陽子の所で面倒を看てもらうことになる。車の後ろの座席へ毛布を敷き寝させてもらった。新谷家でまた世話になる。


                   平成十二年、私は目まいと吐き気が治まらず、新谷家へ引き取ってもらい、介護保険の認定を受けた。それには籍を移さなければならなかったので、私は今も新谷家の扶養家族になっている。京都市から離れた城陽市である。かかりつけ医院もそこにあるから、いちいちそこまで行かなければならない。


                   

                   十一月 八日


                   新谷家へ来た私に陽子はお粥を炊いてくれた。寝ている私に食べさせてくれる。昨夜は三匙食べたし、今朝は小さい茶碗に半分ほど食べさせてもらった。従来の薬も飲ませてもらう。トイレへは手摺りにもたれ陽子に連れて行ってもらう。


                   内科へ先に行こうかと思ったが、週に一度行っている整形外科へ行くことにした。レントゲンをかけてもらった。腰からお腹にかけてまともに歩けないほど痛いのに、骨折はしていない、お腹の方はガスが充満しているので分からないと言われた。


                   とにかく以前、圧迫骨折したときに作ったコルセットをしていなさい、ということになった。鎧のような重たくて硬いものである。それをこれから一ヶ月ほども身につけていなければならない。


                   いい加減に死にたいと思う。わが子とはいえ、こんなに世話になっているのだから。


                   

                   十一月 九日


                   今日は内科の I 医院へ行った。どこへ行くにも陽子が車で連れていってくれる。運転歴二年半、I医院へ行くには踏切があるし道はせせこまいし、運転には気を遣う。それでも陽子は嫌な顔ひとつせず、私をかまってくれる。


                   I 先生の診断、

                  「腸にガスは充満しているけれど腸は動いている、コルセットをしているよりしょうがないな」 
                   

                   この先生は、自然死をすすめられ、入院はすすめない。私も自然死を望んでいる。以前、それをご存知の先生は、

                   「何にも食べず水を舐める程度で、十日は生きてるで」

                  と、生々しく話されたことがあった。今度は私もそうしようと思った。


                   「おとうさん、私死ぬわ。もう何にも食べさせんといて。陽子のとこにも行きとうない。」

                   「そんなこと言うて、お前の苦しむの見てられへん。」


                   本当に三日で苦しくなった。

                   

                  (後略)

                   

                   

                  この後、本格的な介護生活が始まり、母の手記は「介護される側の視点」でさらに1年続いた。

                   

                   

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                  戦後70年の夏に

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                    母の手記を読む(3)


                     

                    母が25年間書き溜めた手記を読んでいる。

                     

                    意識のほとんどなくなった母に毎日音訳しながら、私自身が励まされている。意識がなくなっても、肉親の声はどこか懐かしく聞こえるとか。看護師さんが仰っていたので多分そうなのだろう。確かに母は、私が声をかけるとうっすら目を開け、ホッとしたような表情になる。

                     

                    母の手記の中から今日は、旧満州からの引揚げ後栄養失調で亡くなった、母の娘(私の父違いの姉にあたる)のお話。

                     


                    「お米のご飯」   井筒紀久枝 


                    (NHK学園文章教室 1984年6月 投稿作品)


                     

                    それは、清美が生まれて初めて口にするお米のご飯であった。

                    「お母ちゃん、おいちぃ。」

                    栄養失調で、痩せ衰えた幼子は、皺としかならない笑顔で私を見つめた。

                     

                    「ああ臭い、これは引き揚げ列車だぞう」

                    私たちが乗せられた列車に、どやどやと大勢の人が乗り込んできたのは、山陰線のどこの駅だったかは知らない。

                     

                    「引揚者の皆様、長い間ご苦労さまでした」

                     佐世保上陸のとき、大きく書かれたこの垂れ幕を目にし、「ああ、やっと帰って来た。私は生きて故国に帰ってきたのだ。わが子清美もまだこうして生きている。故国は私たちをあたたかく迎えている」と、私はこみあげる涙をおさえ、清美を抱きしめた。

                     そして、母が心配しているであろう故郷へと心ははやった。

                     

                     だが、列車へ乗りこんでくる人の犇めきや、「引揚げ者だ、臭い。」の囁きに、佐世保上陸のときの感激はうすらいでいた。まだ、この人たちが、闇のかつぎ屋であることは知らなかったけれど、漸く帰ってきたこの故国のきびしさは、私にも感じとれた。

                     

                     しかし、あたたかい人もあった。

                     私たち母子の前に立った中年の男の人は、風呂敷包みをごそごそしていたと思うと、私の前へさしだしたのは、真っ白いお米のご飯のお握りであった。

                     私は思わず、生唾をのみこんだ。

                     

                     私は、当時の満州、竜江省の開拓団。中国の最北にあって、夫の応召後に生まれた清美とともに、多くの人が命を落としていく中を、逃げ、かくれしながら、あるときは物乞いをしたり、盗みをしたりして、生きのびてきたのであった。

                     清美は、過度の栄養失調になっていたが、どうにか生きていた。

                     

                     引き揚げ船では、日に二回の「めしあげ」。甲板から、私たちのいる船底へ向かって「めしあげぇ」の声がかかると、清美は、私にくっつけていた頭をもたげて、早く取りにいくように促した。大人も子供も、小さい椀に一杯の雑炊の配給である。その雑炊には、昆布でもない、わかめでもない、ぱさぱさした海藻が長いまま入っていて、それを引き上げると、高粱の粒が底の方に泳いでいるといったようなものであった。

                     ときには、その代わりに一掴みの乾パンであった。乾パンの中には虫が巣食っていて、うようよ蠢いていた。それを虫ごと食べた。

                     衰弱しきっている清美に、こうしたものを食べさせると、直ちに激しい下痢をおこして苦しんだ。それでも清美は食べ物を欲しがった。

                    私はその子の前で二人分を食べていたのである。そして、その分をと思い、自分の乳房をあてがっていた。私も栄養失調同然。その乳房から、どれほどの乳が出ていたのだろう。清美は、横たわっている私の乳房に、夜も昼、しがみついていて離れなかった。

                     

                     殆どの幼児は、とっくに亡くなっていたが、清美は死ななかった。逃避中や引揚げ途中に亡くなった屍は、野に捨てられ、犬や鳥に漁られているさまや、船の上から海中へ投げ込まれるさまを見ている私は、どうしても故国の土を踏むまで生かしておきたかった。私の一念が天に通じていたのかもしれない。とにかく、私の子供だけは私の腕の中で生きていたのである。

                     

                     私は、「すみません、ごちそうになります。」と、その大きなお握りを割って、少し、清美の口の中へ入れてやった。

                    「お母ちゃん、ああおいちい。」

                     ため息とともに、何とも言えぬおいしいといった喜びの表情であった。また私も久しぶりに味わうお米のご飯であった。

                     

                     こうして、故郷の小さな停車場に降り立ったのは、昭和21年10月も終りであった。いつも母が言っていた「生まれ故郷へ錦を飾れ」とはほど遠く、汚く、痩せ衰えた身にボロをまとった母子の姿であった。誰にも見られたくなかった。昔と変わらぬ山や川が懐かしかった。

                     

                     不意に帰って来た私たち母子に、母は喜び、うろたえ、身体を洗う湯を沸かし、食事をということであったが、汽車の中でいただいたような白いご飯ではなかった。

                    「毎日こうして陰膳していたんやで」という貧しいお膳であった。

                    私の故郷は稲作もできない山峡である。

                    父を早くに亡くした母は貧しく、米と交換する物もなく、配給される僅かな米に、山の木の芽や野草を混ぜたり、山畑で作った根菜を主食にしたりして飢えをしのいでいたのであった。

                     母の私を想う心のこもった陰膳なのであった。

                     

                     清美はその3か月後に死んだ。

                     

                     あれから39年の歳月が流れ、もう誰も聞き手のない昔がたりになってしまった。

                     

                     

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                    以上、ほぼ全文を掲載した。

                    母がこの手記を書いてから、さらに31年の歳月が流れた。

                     

                    満蒙からの引き揚げ体験は、体験した者でなければ到底理解してもらえない。それほど悲惨なものだったという。

                     

                    母の最後の一節、「誰も聞き手のない昔がたり・・・」には決して終わらせない。そんな使命感を、改めて痛感している。


                    秋空へ袖伸ばし干す病衣かな  亜 紀



                    戦後70年の夏に

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                      母の手記を読む(2)


                       

                      1982年から2007年までの25年間、母が書きためた手記が手元にある。これらを毎日少しずつ入院中の母に音訳している。と言っても、重篤な脳梗塞でほとんど意識のない母にはどこまで聞こえているのか、表情から推し量るしかない。

                       

                      すでに出版された母の著作に添った内容もあるが、原稿用紙10枚分それぞれにテーマが付けられ一遍のエッセイになっているので、短編として読める。いくつか抜き出してみたい。


                       

                      「い・の・ち」   井筒紀久枝
                       

                      (NHK学園自分史講座 1990年11月 投稿作品)


                       

                       その胎内に芽生えた小さな命は、この世に生まれてくるべきものではありませんでした。当世なら闇から闇へ葬られた命でした。

                       

                       が、当時の法規は厳しく、たとえ、産婆(助産婦)をしていた母親であろうとも、娘の身体の異常に、いち早く気づきながらもそれは叶わぬことでした。そのときの母娘の苦悩が窺われます。

                       

                       私が「お父(とう)」と呼んでいたのは、私の父ではありませんでした。母は、私より十歳年上の男の子のある父の元へ、赤ん坊の私を連れて嫁いできたのでした。

                       

                       私が物心ついたころには、私は周囲の人からいじめられていて、母からも粗末に扱われていました。生傷の絶えない痩せっぽちの子どもだったのです。たまに私を見にくる祖母が救いでした。産婆をしていた祖母は、ときどき

                      「おっ母(か)に貯金してもろとけや」

                      と言って、大きな五十銭銀貨を握らせてくれました。しかし、その貯金通帳も、ついに見ることはできませんでした。

                       

                       尋常小学六年間、通知表にはいつも「栄養丙」と記されていました。その小さい身体の女の子は、尋常科を卒えると製紙女工になりました。当時、昭和の初期、結核が蔓延していて女工の仲間たちは、次々結核に冒され永い患いのあと死んでいきました。体格の良かった若者が痩せ衰えて死んでいくのでした。けれども私は、一日十時間の作業をして、月、二日の休日、ときには残業までしていましたが、結核には罹りませんでした。

                       

                       やがて私は、大陸の花嫁を志望して満州へ行きました。大陸の開拓地で、私は身も心もどれだけ伸び伸びしたことでしょう。けれどもそれは僅かに一年足らずでした。見ず知らずの人と結婚して漸く、その夫の気心が知れようとするころ、夫の応召でした。そのとき私は身ごもっていました。私は、身ごもった身体で、夫の意志を継ぐべく農耕と共に畜産の指導をうけ、乳牛の世話をしていました。乳牛は次々に仔を産みました。

                       

                       ある朝、飼葉を与えに牛舎へ入って行くと、出産間近の牛が苦しんでいるのです。私は、獣医でもあった指導員の先生に告げに行き、診ていただきました。逆子だったのです。私は、先生の指示に従い、牛の胎内で踠いている仔牛が下の方へ出てくるように、藁を摑んだ手で母牛のお腹をさすりました。

                       

                       私の胎内でも時々ときどき胎動を覚えました。私は、仔牛が無事に生まれてくるよう祈りながら一生懸命さすっていました。けれども夕方近く、牛は、一日中看病していた私の顔を悲しげに見つめ、その大きな目から涙を流したと思うと「モウー」と一声啼き、頭をがくっと垂れたのです。腹の中の仔牛ももう動いてはいません。二つの命が消えたのでした。

                       

                       その四ヶ月後、私のお産は全くその牛と同じ状態になったのです。私の胎児も逆子だったのです。病院もなく医師もいない開拓地で、一人の若い看護婦さんだけが頼りでした。激しい陣痛の合い間に、死ぬ間際のあの牛の顔が浮かびました。私もあの牛のように死んでしまうのかと思いました。看護婦さんは、私だけでも助けようと思われ、見え隠れしながらなかなか出てこない胎児の足に紐をかけて引っ張り出そうとされたらしいのです。そのとき、赤ん坊は私の胎内から出てきたのです。助かった私の命と、この世に生れ出た命でした。

                       

                       そして、一年は経ち、祖国の敗戦でした。若かった私たちは生きて辱めをうけるよりもと思い、自決を決意しました。ところが決行しようとする直前になって、年長者の自決反対組から阻止されてしまいました。それでも、自決を唱えたリーダーの校長先生一家は、その反対組の人たちと争いながらも翌日自決を決行されました。六人の人の命が同時に散ったのでした。

                       

                       それからは、私の身近で、目の前で、仲間たちが殺されたり餓死したり病死したりしました。それなのに、私は暴民が襲ってくる銃弾が頭の上を掠めても足元に落ちてきても、もうこれまでと逃げるのを諦めても、捕えられもせず弾にも当たりませんでした。

                       

                       ある時は八路兵に従わなかったので銃口を向けられたこともあります。私はそれまでに、こうして八路兵に一発で殺された人を見ていました。私は母子一緒に殺して欲しいと思い、子供を抱きしめて「撃て」と、座り込みました。ところが丁度そこへ、その兵隊の上官が現れたので、兵隊は銃を下したのです。

                       

                       チチハルの収容所でも多くの人が病死したり餓死したりしました。その死体から出てきた虱や蚤にたかられました。しかし私は、親切な中国人の家庭に母子共に住み込みで雇われることができたのでした。四、五歳までの子どもは殆ど栄養失調になって死んだり捨てられたりしていましたが、私は子どもを連れて引き揚げてくることができたのです。

                       

                       しかし、子どもを連れて帰ってきたものの、わが子を私と同じ境遇にはさせたくありませんでした。その祈りのような思いは叶えられず、引き揚げ道中の栄養失調がもとで、子どもの命は奪われたのです。私のせめてもの慰めは、わが子を異国の土にせず故国で葬ってやれたことでした。すべてをなくした私は、その後幾たびも死を試みましたが、死ねませんでした。

                       

                       やがて私は再婚し、二人の子どもができました。不運と貧困はつきまとい、私はなぜこの世へ生まれてきたのだろうと、子どものころからの思いは募り、私を産んだ母を恨みました。

                       

                       母は、私のほかに三人の妹を産みましたが、三十代で夫を亡くしています。

                      「お父が死ぐ(死ぬ)とき『お前はうらの分まで長生きせいや』って言うたけど、うらは若いときからおぞいことのうた(苦労した)さかい長生きはでけんやろ」と言うのが、母の口癖でした。

                       

                       事実、父の死後も豆腐屋を続けていましたが、ときどき胃痙攣を起こしたり、肺尖カタルに罹ったりして、子どもの私たちに心配させていたのでした。それなのに、今まだ九十二歳の命を保っています。

                       

                       その母の世話をしてくれていた妹が、今年の春死にました。癌に冒されているとも知らず、手術後も一向に良くならない自分の身体をもてあましながらも、

                      「私はまだ死にとうない。おっ母より先には死にとうない。」

                      と言いながら六十六歳の命を閉じたのでした。

                       

                       自分のものでありながら思うようにいかない自分の命。命は神様から与えられているのでしょうか。

                       

                       と、すると、これは神様のたわむれなのでしょうか。なぜなら、昨年、私の娘が二人目の子を五年ぶりに身ごもりました。ところが、八ヶ月に入ろうとする頃死産してしまったのです。その後間もなく娘は再び妊娠し、今また出産を控えているのです。

                       

                       死産した水子は、そのとき荼毘に付したのですが、小さなお骨が完全な形で残りました。マッチ棒ほどの細さの手足の骨と、それより細い肋骨が並んでいるのには感動しました。

                       

                       私は過去に、生活苦からとはいえ二、三回堕胎しています。私はこれを見て、自分の罪を意識しました。神様のたわむれなのか、それとも私の罪のへの罰だったのか、娘の死産と、やがての出産に、私の頭の中は交錯し、生まれてくる子の無事を祈るばかりです。

                       

                       今年の夏のある日、わが家侵入してきた蟻の列に、私は殺虫剤を噴きかけました。蟻はその辺にゴマでもまいたようになりました。が、数匹がまだせっせと歩いていました。私はそれを見て、むかし満州で敵に襲われながらも逃げ延びることのできた自分の姿を思い出し、潰すことはできませんでした。

                       

                       すべてのものに命があります。樹齢何百年もの木が毎年、芽を吹き花を咲かせ実を成熟させています。かと思うと、春から夏へ精いっぱい花を咲かせ枯れていき、種子をこぼして次の世代に残す草花があります。この夏の暑い日照り続きに萎えている農作物も、水を与えればしゃんと起きあがります。暑さにもめげず勢いのいい雑草は刈っても引っこ抜いても、新しい芽を伸ばしてきます。みな、命の限り一生懸命生きているのです。

                       

                       わたくし六十九歳。やがて七十歳になろうとしています。むかし流に言えば古来稀な長生きだとして祝われたであろう「古稀」なのです。身長153センチ、体重38キロ。若いときから45キロを超したことはありませんでした。けれども病気らしい病気もせず過ごさせていただきました。

                       

                       母を恨み世を恨み、自分の出生を恨んだこともありました。しかし、今は、この世へ生をうけさせていただいたことに感謝しているのです。私はこの世へ送り出されて、あらゆる試練を与えられましたが、危機が迫るといつも神様か仏様のご加護をいただいていたのでした。

                       

                       私は、人に「あんたは百歳まで生きるやろ」と言われていますが、これから何年か命ある限り心豊かに生かせていただくつもりです。

                       

                       

                       inochi.jpg

                       

                       

                      以上、プライバシーを守るため一部割愛したが、ほぼ全文を掲載した。

                       

                      「いのち」をテーマに、すべて母の体験の中から語られているので、胸に迫るものがある。

                       

                      文章の中で、「自分のものでありながら思うようにいかない自分の命・・」と書いているが、今、ほとんど意識のない中で、母は同じような境地にいるのかもしれない。穏やかそうな母の表情の中に、時々諦めたような、悟ったようなまなざしが見える。


                       

                      敗戦忌母のペン胼胝固きまま  亜 紀


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                      俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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