「子の墓に」

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    ━━「母の一句」━━━━━━━━━━━━━  

     

      子の墓にかくれ逢ふ身よ法師蟬   山口紀久枝

     

    ━━━━━ 俳句雑誌「寒雷」(昭和28年11月号)より ━━ 

     

     

     母は戦後、俳句に救いを求め、生きる気力を得た。
     そして、初めて投句した俳句誌が加藤楸邨主宰の「寒雷」。

     

     


     掲句は、投句二年目にして巻頭を得た五句のうちの一句。
     以下に、選者楸邨の選評を全文転記させていただく。

     

     

       反 芻   加藤 楸邨
     

     

        子の墓にかくれ逢ふ身よ法師蟬   紀久枝
     

     

     子の墓に身をかくして逢ふ人を待つてゐる。法師蟬の声が身に切なくひゞいてくる。さういふかなり特異な境涯が詠まれてゐるのだが、その特異な位置が素直に生かされてゐて、深刻ぶつた響がない。若くて夫に別れ、紙漉を生活としてゐるといふ今の時代の女のかなしさが滲み出た作の多い人だが、今度の一連には、再婚、愛情、亡き子への愛著(ママ)といふものが滲み出て、惹きつけられた。
     

     

        再婚をせねばならぬ身銀河滲む(注 作者は「澄む」と表記している) 

    ​    汗の腋毛見られて婦人服かなし
     

     

     などは、女の身のかなしさをそのまゝ詠んだものだが、
     

     

        恋告げて恋成りたてばたゞの猫
     

     

     になると、かなり複雑な自省と批判とが基調になつてゐる。
     

     

        炎天下来てありがたきわが漉場
     

     

    を見ると、職場が救ひになつてゐることがわかる。溺々たる女身のかなしさが奏でられた中に、この句にみるやうな芯の徹つた強さのあることがたのもしいと思ふ。

     

     


      

      母は、引揚げ後から再婚に至るまでの話をあまり語らなかった。

      この楸邨の句評は、当時の母の境涯と心中をしみじみと推し量らせてくれた。

     

      さすが、「人間探求派」の楸邨である。

     


    紙を漉く

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      ━━「母の一句」━━━━━━━━━━━━━━━  

       

        紙を漉く妊婦いただく額の汗   山口紀久枝

       

      ━━━━━━━俳句雑誌「北十字」(昭和26年10月号)より━ 

       

      昨年、母に関するいくつかの貴重な資料を得た。

      その一つが掲句を含む俳句雑誌「北十字」である。

       

       

       

      「北十字」は、昭和25年11月に創刊された同人誌で、加藤楸邨の主宰誌「寒雷」の衛星誌「天雷」を継承した。当時「寒雷」で活躍していた飯田旭村(いいだきょくそん)を代表とし、主に福井県同人の活動の場となっていたようだ。

       

      母を俳句の世界へ導いてくださった恩人で、「北十字」の編集発行人をされていた大坂淝水(おおさかひすい)さんと、幸運にも連絡が取れ直接お会いできた。「北十字」は昭和31年、福井県現代俳句雑誌「幹」に継承されるが、創刊号から昭和27年まで、母の活躍した期間全ての号をご恵贈いただいた。

       

      この句は、「北十字」の「次代作品抄」に母が初投句した3句のうちの一句。他に以下の句がある。

       

        炎天や紙漉くことを羨まれ      山口紀久枝

       

        瀧つぼに子を泳がせて髪洗ふ

       

       

       

      母が引揚げ後の混乱の中で娘を栄養失調で亡くし離婚した頃だから、同じ職場の紙漉女工の姿を詠んだものだろう。妊産婦や乳飲み子を抱えた女工の辛さや、紙漉く所作の気高さについてはよく語ってくれた。

       

      母は、戦後のどさくさで希望を失い自暴自棄になっていた頃、「寒雷」や「北十字」にせっせと投句し、「生きる力」を得たのだろう。

       

      母を再生させた「俳句の力」を改めて実感した。

       


      「この一句」

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        ━━俳句雑誌「京大俳句」(昭和13年6月号)より━━━━━━━━
         

         泥濘となり泥濘に撃ち狂ふ  西東三鬼

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        俳句の基本は写生。嘘のない本当を詠むこと。
         

        掲句の三鬼の作品は、当時のニュース映画か報道写真を見たのだろう。戦場に行ってなくても「戦争」の狂気を詠んでいる。
         

        他の号には以下のような句もある。
         

         

          機関銃眉間ニ殺ス花ガ咲ク      西東三鬼

         

            悉く地べたに膝を抱けり捕虜   

         

          パラシフト天地ノ機銃フト黙ル
         

           塹壕に眼窩大きく残されし

         

          老兵(ラオピン)と鴉びしょ濡れ樹の上に
         

            

        「戦火想望俳句」とも銘打たれたが、嘘のない戦争を詠んだために弾圧された。

         

        戦場を体験していない者がそれを詠むことは確かに真実ではない。でも、体験してなくても想像し、平和への思いを馳せる感覚は、しっかり持っていたい。
         

        来月、長野県「無言館」のほとりで「俳句弾圧不忘の碑」の除幕式が行われる。我が師「雉」の田島主宰も発起人のお一人である。

         

        戦争の時代を真っすぐに見つめ憂えた三鬼たちの思いが、今やっと伝わり始めた。
         

         

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        弘法大師像を守る犬の像(京都市東山区 泉涌寺塔頭 即成院)
         

         


        迎春

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          明けましておめでとうございます。

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          下御霊神社  (京都市中京区)

          この狛犬くん、どう見ても笑ってる。間近で見上げると、マスクの自分の顔が思わずほころび、少し幸せな気分になった。

          2018年戌年新春。戦火の未だ絶えないこの世界。みんなが心から笑える平和な時代を祈願したい。
           
          思わぬ病を得て中断していた「はっぴい俳句」も心機一転、笑って再開しよう。
           
          笑う門には福来る!


          母が遺してくれたもの(4)

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             「戦争を拒む未来」
             
            旧実家の片付けはなかなかはかどらない。思いがけず懐かしい写真が出てきたり、若かりし頃の自分の日記に顔を赤らめたり。すぐに手が止まってしまう。
             
            母の遺した手記や著書を読み返し、少しずつこのブログにUPしているが、こちらの方はなかなか奥が深くデリケートな内容もある。慎重に読み込み、後世に語り継ぐべきものを選んでいきたいと思っている。
             
            今回は、41年前(1985年発行)のもの。
             
            戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会/編
            「戦争を拒む未来」

             
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            「はじめに」として飯沼二郎氏の序文がある。最後の一段落を以下に引用させていただく。
             この本は、人から頼まれたものでもなく、全く自主的に、しかも原稿料をもらうどころか、逆に1ページ6千円を払ってまで、自分の戦争体験を子孫に伝えようとした方々の39編の文章を集めたものです。こういう方々が、戦後40年もたった今日、しかも政府やマスコミの反動攻勢のなかにあって、なおかつ全国に39人もおられたということに、私は大きな驚きと喜びと誇りを感じます。「戦争と原爆を語り継ぐ共同出版委員会」の方々が、「丸木位里・丸木俊原爆の図をみる会」の活動の一環として、このような本をつくって下さったご努力に心から感謝するとともに、これからもご一緒に、このような企てをつづけていきたいものとおもっています。

            「第一章 往還―破られたもの―」
             
            この中に母の手記4編が掲載された。以下に最初の一編のみを記す。
             
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             わが子への追悼記   井筒紀久枝

            昭和初期から終戦直前にかけて、満洲開拓は五族協和を理想にした国策として実施されたもので、国民の多くは将来の王道楽土を、その沃野にゆめみて参同したのである。私もその一人であった。当時の教育によって培われた私たちの純真なゆめや、理想は結局「中国侵略」と、いわれるものなのであった。
             
             一、お 産
             
            私はそのとき、暗いランプの灯影の下で五分おきぐらいに襲ってくる陣痛に喘ぎながら考えていた。この陣痛がきてもう三日になる。私もお腹の子も苦しんだあげく死んでしまうのだろうか?あの牛のように・・・。
            昭和18年3月。私は自分の青春を賭けて大陸の花嫁に応募した。見ず知らずの人を夫に定め、はるばる北満の
            果てまで行ったのである。電灯もなく、病院もない医者もいない開拓地。冬は氷点下30度、40度の北満であった。

             
            男たちは、大陸にまだ馴れきらぬ花嫁たちに、広い耕地と、数多くの家畜を残し、その上、自分の子を孕ませて戦地へいった。
             
            私は、乳牛5頭、馬5頭、豚30頭を飼育しなければならなかった。牛は次々仔を産み、乳を出した。ある朝、飼葉を与えに牛舎へ入っていくと、予定日を過ぎた牛が苦しんでいた。私は先生(農事兼畜産指導員)を呼んだ。牛は4本の足を折り曲げて座りこみ、首をもたげて苦しんだ。
             
            先生は「逆子だ、下へ押しだすようにして擦ってやれ」と私に指示した。私は両手に藁を掴み腹の仔が無事産まれるように祈りながら擦ってやった。
             
            私の胎内にいる子も、ときどき動いていた。
             
            やがて日も暮れかかろうとする頃苦しみぬいた牛は死んだ。一日中擦っていた私の顔を悲しげに見つめ、その大きな目から涙を流したと思うと「モー」と一声啼き、もたげていた首がガックリ垂れた。腹の仔も動かなくなっていた。
            その後まもなく、私の胎児も逆子ではないかと思うようになった。それは頭と思える丸くて固いものが腹の上部にあったからである。頼みとするのは、その頃日本から来たばかりの看護婦さんだった。しかし未婚者で私と同い年の若さだった。
             
            私は、お産で死んだ牛の顔を鮮烈に思い浮かべながらも、いつかうとうととしていたらしい。広い草原を一目散に走っていた。早く母のいる日本へ帰ろう、母のもとへと果てしない昿原を走っていた。と、「ねえさん」「ねえさん」と遠くで私を呼ぶ声がした。それでも私は走っていた。近くまで迫ってくるその声にふりかえった。そのとたんに気がついた。
             
            「眠ったらあかん」「眠ったらダメよ」
             
            いつのまにか、私の仲間が枕元に来ていて私の頬を叩いているのだった。
             
            故郷を離れてきている私たちの絆は、肉親以上のもので、お互いに「ねえさん」と呼び合い、親しみ、助け合っていたのである。
             
            「ポン」と音をたてて破水し、羊水が飛び散った。それから数時間・・・。
             
            「あっ、足が・・・」と、うつろに聞こえた。私は一生懸命いきんだ。ねえさんたちが「頑張って」「頑張って」と、私の両手を掴んでいた。何とも言えぬ痛みがいきみを伴った。そして力が抜けた。
             
            昭和19年8月20日のことである。
             
            産まれた小さな女の子は、清く美しく育って欲しいという願いから清美と名付けた。
             
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            清美は、敗戦後母の背中で命からがら帰国できたが、食べるものも薬もなく栄養失調で2歳半の命を閉じた。
             
            清美は、まわりの大人たちのように戦争に加担することもなく、文字通り「清く美しい」まま亡くなった。

            同じ母親から生まれてきた女の子でも、私は戦後の平和な世の中に生まれ、何不自由なく心から笑い歌い、美味しいものを食べ、恋愛をし、子供を産み育てる喜びも味わってきた。一方、戦争の真っ只中に生まれた清美は、苦しんでやっと生まれ落ちたら逆子。生後も、すでに父は戦場に取られ、1歳で敗戦。その後は地獄のような苦しみ。怖さと寒さと痛みと飢え、渇き。そして最後には死が待っているだけだった。

            これほど理不尽なことはない。戦争は、同じ人間の生を、これほどまで悲惨にしてしまう不条理なものなのだ。改めて実感した。
             

            「愛の光感謝の集い」

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               「愛の光感謝の集い」
               
              2016年4月16日、京都東山の高台寺に立つ「アイバンク愛の光碑」(慰霊碑)前において、「感謝の集い」が開かれた。
               
              ご丁寧なご案内を頂戴したので、私は娘を誘い、献眼者の遺族として参加した。主催は「公益信託アイバンク愛の光基金」。「案内文」によると、昭和57年に厚生省の認可を受け設立されたボランティア団体だそうだ。
               
              昼食会を含めて約2時間。とても充実した体験だった。
               
              まず黙祷。つづいて関係者のご挨拶。そして、母を含めた昨年一年間の献眼者の名前が披露され、名簿が「アイバンク愛の光碑」に収納された。碑の中には、これまで献眼された方々の芳名禄が納められ、そこに母たちの名前が加わった。
               
              折しもこの日の未明、熊本では大きな地震があり、ラジオから絶え間なく流れる地震速報に心が痛んだ。黙祷と献花の時、被災者の方々への思いも祈りに込めた。合掌。

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              「アイバンク愛の光碑」
               
              慰霊碑を囲むように葉桜や若楓が美しく、松の若緑や石楠花もまばゆいばかり。何より陽射しと風が爽やかだった。母も一緒に緑の風になっていたのかしれない。
               
              最後は遺族とアイバンク関係者による献花で、式の部は終わった。
               
              式に続く昼食会では、他のご遺族の方々とゆっくり歓談できた。実際に献眼するまでは、遺族間に微妙な意見の食い違いや心の葛藤があったというお話には共感できた。また、献眼を受けたことで目に光が戻ったというご婦人のお話には感動した。本当に貴重なひとときだった。
               
              アイバンク組織移植コーディネーターの女性 I さんのお話によると、「日本では移植を待っておられる患者さん方に対して、献眼してくださる方は、まだまだ足りない状態」だとのこと。
               
              そんな中で、母が献眼し、私たち家族もその遺志を尊重して協力したということで、このような会が設けられたとのことだが、恐縮至極である。

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               高台寺
               
              昨秋母が亡くなった数日後にいただいた、I さんからのお手紙を思い出した。特に最後に綴られた以下の言葉には涙があふれた。
               

              ・・このようにご献眼くださった目は、第二の人生を歩み始めました。これから、移植を受けた患者様と共に、たくさんのものを見て、たくさんの経験をされることと存じます。

              井筒キクエ様の角膜に映る世界が、戦争の光景ではなく、平和な世界であるように、私には何ができるのか、「大陸の花嫁」を拝読しながら深く考えさせられました。


               I さんの、この感慨深いお言葉を、そのまま私自身にも置き換えてみた。
               
              「移植された母の角膜に映る世界が、戦争の光景ではなく、平和な世界であるように、私には何ができるのか」・・と。心に刻みつけた。
               

              母が遺してくれたもの(3)

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                「孫たちへの証言」

                旧実家の片付けに来るたびに、母の遺した手記や著書を読み返している。

                新風書房発行「孫たちへの証言」第12集(平成11年発行)
                           〜今、書き残しておきたいこと〜

                この第12集のテーマが「今、書き残しておきたいこと」。
                 
                では、第1集から第11集にもそれぞれのテーマがあったはず。パラパラ見てゆくと、最後のページにあった。

                「孫たちへの証言」
                 全国公募の中から選び抜かれた玉編の証言集

                 
                 第1集「私の八月十五日」
                 第2集「激動の昭和をつづる」
                 第3集「そのとき、私は・・」
                 第4集「戦争、それからの私たち」
                 第5集「いま語り継がねばならぬこと」
                 第6集「こんなことがあっただョ」
                 第7集「なんとしても語り継ぎたいこと」
                 第8集「50年前のあのことこのこと」
                 第9集「次代へ語り継ぐ私の戦争」
                 第10集「心にしまいこんでいたこと」
                 第11集「今だから語れること」

                ざっとテーマだけを見ても、戦中戦後を生き抜いた方たちが、孫たちの世代に向けてぜひこれだけは書き残したい、という熱い思いが伝わってくる。
                 
                編集者、福山琢磨氏(新風書房代表取締役)の「あとがき」によると、1018編の中から98編が採録された、とある。母の手記もその1編として掲載された。
                 
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                 国策にそい“大陸の花嫁(興亜開拓団)”になった私
                              京都市 井筒紀久枝 (七十八歳)
                   
                昭和十八年四月、国策に従い「大陸の花嫁」を志願した私(22)は、写真も見ず、見合いもせず、第一次満蒙開拓団青少年義勇軍名簿の中から一人を夫に決めて渡満した。

                現黒龍江省甘南県、チチハルから二百キロの奥地だった。

                甘南地区には第九次として入植した熊本(東陽)、福岡(興隆)、山口(新発)、愛知(三合)、茨城(義合)、山形(協和・大和)、福島(呉山・大平)、福井(興亜)と十の開拓団があった。

                福井県の義勇隊は興亜開拓団に編入された。本部は五キロ離れた位置にあった。

                義勇隊員は三十人ほどだったが十九年早々より召集令がくるようになり、私の夫も応召した。八月女児清美を出産した。母子の命が危ぶまれるほどの難産だった。

                二十年。春には義勇隊員三人、女十三人、赤ん坊八人になっていた。治安が悪く、七月には本部へ集結、敗戦は八月十七日に知らされた。

                自決を唱える興亜国民学校坂根幹雄校長に賛同する教え子や義勇隊の私たちと、団長以下の自決は二十日校舎内で決行と決まった。
                 
                二十日は清美の誕生日である。私は満一歳の子にも決死の白鉢巻を締めてやった。決行の日、団長以下数人が、自決を止めに来た。その日は校長と団長の争いで終わったが、翌二十一日、教員宿舎から白鉢巻を締めた奥様(教師)が毅然として出て来られた。

                「先立つことを許してほしい。きみたちは生き延びて祖国の復興につとめてほしい」と、死出のあいさつをされた。私たちは返す言葉もなく、後ろ姿に「君が代」を歌っていた。

                六、七発の銃声を聞いたのはそのすぐ後だった。

                坂根幹雄校長(34)、みち夫人(24)、廉太郎君(4)、興次郎君(2)、坂根きくえさん(24−学校職員)、坂根いくのさん(23−本部職員)の六人だった。

                略奪と暴行の混乱の中、私たちは、昼は野菜を貯蔵していた穴蔵に身をかくし、夜は手製の槍を持って夜警に立った。毎日毎夜何人も殺されたり捕らわれたりした。そして、十月九日のことである。近くの朝鮮人数人に本部を夜襲から守ってやるとだまされ不意打ちをくい何もかも奪われ尽くし宿舎と学校も焼かれてしまった。

                生き残った男数人について女と子供と怪我人、数十人が避難したのは、福岡県の興隆開拓団だった。団長の山本実氏は、厳しい態勢の中にありながらも、興亜の生き残りを受け入れてくださったのである。ここでも自決、餓死、凍死があいついだ。

                二十一年五月チチハルへ南下した。このとき、私と同期の「大陸の花嫁」だった西沢千代子さんは、二歳のわが子満邦ちゃんを負うて二百キロの道を歩く自信がないと言って南下を拒み、興亜の十人ほどの孤児とともに火梨地(ほりで)部落へ残留した。のち、孤児たちは一時帰国、永住帰国したが、西沢母子の消息はようとして分からない。

                チチハル収容所では、伝染病が蔓延して栄養失調の体が冒され、大勢の人が死んだ。私は収容所を出て、満州人の乳母に入ったので、母子は食べさせてもらうことができた。しかし、八月二十八日チチハル引き揚げ。無蓋貨車での無理は、幼いわが子清美の体を蝕んでいった。栄養失調で痩せ衰え下痢をくりかえして苦しみながら船に乗ったが帰国三ヵ月後の二十一年一月に死んだ。その半年後、夫は栄養失調と怪我によってシベリアから復員してきた。しかし、夫婦の愛は育たず離婚した。

                のち再婚し貧困と住宅難にあえぎながら二人の子供を育てた。そして、五十年経った。「中国残留婦人の会」会長山田忠子氏(山口県)は、毎年残留婦人を数人ずつ里帰りさせている。京都で歓迎会のとき、私はモンゴルから来た人と隣り合わせた。甘南県呉山開拓団の人だった。

                「日本語よく覚えていたわね」
                「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

                東北弁が残っているのが哀れだった。

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                この手記の中にある、西沢千代子さんと満邦ちゃん母子について、母は最晩年、老人ホームに入居してからも何度も語っていた。敗戦当時は、自分たち母子のことだけで精一杯で、彼女に帰国を説得しきれなかったことを繰り返し反省していた。

                母が50年後に出逢った中国残留婦人の

                「忘れないように独り言は日本語で言っていましたから」

                 
                この言葉に胸がつぶれる。帰国まで、気の遠くなるほどの年月を、彼女はどれほどの思いで待っておられたことだろう。

                そして彼女のように、いつか日本に帰れる日が来るのを信じながら、日本語を忘れないよう、独り言だけはは日本語でつぶやきながら、そのまま鬼籍に入ってしまわれた残留婦人もあったことだろう。

                決して忘れてはいけない史実だ。

                母が遺してくれたもの(2)

                0

                  「わが心の春夏秋冬」


                  「私の墓標は本」生前、母はいつもそう言っていた。

                  母の遺影の前にずらりと並べた多くの書籍・雑誌・手記・句集等々。
                  一冊ずつ手に取り眺めたり音読したりしながら、少しずつ整理している。

                  潮文社編集部編の「わが心の春夏秋冬」〜生命(いのち)映えるとき〜

                  編集部の前書きによると、2039編の中から76編が採録され、その一遍として母の手記が載せられている。


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                  生かされて    井筒紀久枝  大正10年生(京都市) 主婦


                     
                  オンドルのしんしん冷えて生きてをり

                  昭和十八年、私は旧満州の沃野に夢を託し、「大陸の花嫁」を志願した。写真も見ず、見合いもせず、満蒙開拓青少年義勇軍の青年を夫に決めて渡満した。開拓地は北の果て、チチハルから二〇〇キロの奥地だった。遥か北西に連なる大興安嶺が薄墨色に見えるばかりの、地平線を見はるかす原野だった。

                  その大地にまだ馴染むまでにもならなかった翌十九年早々、夫たちは戦争に駆り出された。そのとき、私の胎内には小さな命が芽生えていた。医師もいない、開拓地での出産だった。

                  そして、昭和二十年八月、祖国の敗戦に、開拓地は阿鼻叫喚の巷と化した。殺される者、自ら命を絶つ者、餓死、凍死。みんな死んだ。

                  私は、幼いわが子を抱きしめて必死に生きた。子どもが泣けば「殺してしまえ」と言われた。零下何十度の酷寒の中、唯一の暖房、オンドルに焚く燃料にも事欠き、しんしんと寒さに襲われた。そんなとき、寒さを感じるのは生きている証し、私は生きているのだ、この子も生きている。明日もあさっても、生きなければならない。私たち母子は、何が何でも生きて故国へ帰らなければならない、と心に誓っていた。

                  昭和二十一年十月末、私たち母子は、栄養失調で痩せ衰えながらも、故国の土を踏むことが出来た。しかし、食糧難の時代、幼子に食べさせる物はなく、ようやく連れて帰ったわが子は、その三ヵ月後に死んだ。


                  私の故郷は福井県越前和紙の里である。私は引き揚げてから、紙漉き女工に戻っていた。一年後、夫がシベリア抑留から復員してきたが、満州に憧れて結婚しただけの私は、夫をどうしても愛することができなかった。

                  無一物の引揚者で、出戻り娘となった私に世間の眼は冷たかった。厳寒の紙漉きは、簀桁(すげた)が凍りつき、漉き水には氷が張る。

                     
                  あかぎれに紙漉く水のつきささり

                  手の霜焼は乾くと割れて、あかぎれになった。越前和紙、襖紙は、漉き水の中へ肘までつっ込んで漉かなければならない。それは、冷たいというより、つきささるように痛かった。


                  昭和二十九年、私は再婚して京都に住みついた。貧乏と住宅難は相変わらず私につきまとい、よその屋根裏を借りたり、バラックを借りての生活だったが、そうした中で二人の子どもが出来た。夫は週に一度しか帰って来ない長距離トラックの運転手。私は子育てをしながら内職に励み、子どもが高学年になると勤めに出た。

                  そして幾歳月――。小さいながらもわが家を持つことが出来た。と、思う間もなく、成人した二人の子供は巣立っていった。今は夫と平穏な余生を送っている。

                  生かされて生きてきた私。ふと出来た俳句をそのまま題名にした私の自分史は、平成五年、NHK学園自分史文学賞大賞になった。生涯誰にも語るまいと心に秘めておいた自分の生い立ちや過去を、勇気を奮って書いた自分史。それが大賞になるとは、夢にも思わなかった。題名にした俳句は、私の生涯、心に残る思い出の句である。

                    
                  生かされて生き万緑の中に老ゆ


                  wagakokoro2.jpg


                  以上、この手記で母は、たった3句を自句自注しながら自分の半生を語っている。

                  旧満州からの引き揚げ時代の一句
                  「オンドルのしんしん冷えて生きてをり」
                  からは「いのち」の力が、

                  紙漉き女工時代の一句
                  「あかぎれに紙漉く水のつきささり」
                  からは「いのち」の疼きが、

                  そして、ようやくたどり着いた平穏な晩年。その感慨を詠んだ一句
                  「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
                  からは「いのち」の実りが伝わってくる。

                   

                  母が遺してくれたもの(1)

                  0


                    自分史「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
                     
                    立春を過ぎてもまだ寒さは厳しい。
                    でも、陽射しだけはすっかり春になった。

                     

                    「一陽来復の春」というのか、キラキラした春の陽射し
                    を浴びると、何故か気持ちも明るく前向きになってくる。

                     

                    空き家になった旧実家を片付けながら、母の遺した著書や
                    原稿などを整理し、次々と祭壇に並べている。

                     

                    生前母はいつも言っていた。
                     

                    「私は墓も位牌も要らない。私の墓標は本。」
                     

                    その希望通り実行しているわけだが、「お墓」については
                    まだ検討中だ。母の亡骸は目下京都府立医大に「献体」中
                    でお骨返還は3年後とか。それまでにゆっくり考えたらいい
                    と思っている。

                     

                    そんな中で、母の遺した懐かしくも貴重な資料がいろいろ
                    出てきた。

                     

                    まずは、母が70歳になって初めて書いた自分史
                    「生かされて生き万緑の中に老ゆ」
                    について紹介されたNHK情報誌「ステラ」(1994年)
                    の記事。


                    sutera.jpg


                    受賞パーティーで談笑する嬉しそうな母の姿も掲載されている。
                    母が一番輝いていた時代だ。



                    記事の最初の部分だけ書き写してみる。
                     

                    自分史文学賞大賞受賞
                     「生かされて生き万緑の中に老ゆ」


                     NHK学園では、創立30周年を記念して「自分史文学賞」の作品募集をしましたが、応募540点の中から、審査委員長のノーベル文学賞受賞の大江健三郎先生ほかの審査によって、大賞に選ばれたのが、京都
                    市にお住まいの井筒紀久枝さん(現在73歳)の「生かされて生き万緑の中に老ゆ」という作品でした。
                     井筒さんは福井県に生まれ、母と義理の父と貧困の中に暮らし、小学校卒業と同時に、紙漉きとして働き、昭和18年、大陸の花嫁として当時の満州に渡りました。敗戦で赤ん坊とともに生死をくぐって引き揚げ。
                    その後も苦労の連続でしたが、ずっと続けていた俳句と短歌の成果が表れ、井筒さんの歌が昭和43年の「宮中歌会始め」の入選の栄に浴しました。
                     その後、NHK学園の「文章」「自分史」の講座で学び、そのリポートとして自分の体験を切々とつづり、それをまとめたのが、この作品です。
                     NHKでは去年8月、ラジオの深夜放送「ラジオ深夜便」でこの作品を15回に渡って朗読し紹介しました。この放送が大きな反響を呼び、企画をしたNHKラジオセンターの山口剛ディレクターと朗読をした
                    日野直子アナウンサーを驚かせました。あまりの反響に、そのあと12月(15回)と今年の8月(18回)と重ねてこの作品を朗読しましたが、またまたたくさんの新しい感動の電話や手紙が寄せられました。

                    (後略)

                    この後、母の作品を朗読してくださった日野アナウンサーのインタ
                    ビューが続く。

                     

                    そして、最後の頁には審査委員長の大江健三郎氏の嬉しいお言葉も。

                    自分史文学賞の審査にあたった大江健三郎先生の言葉
                     

                     ザックバランに矛盾もくみこみながら、それとして、強い庶民の個性をつらぬきうる「自分史」の書き方が工夫されているのである。戦争と戦後、旧満州と日本、そこでなんども苛酷な運命を生きながら、決してくじけぬ女性の生命力と生きる知恵、努力ということ(楽天的な信頼)さえ分けもたせる「自分史」。僕は具体的に「自分史」の本当のかたちをひとつ、教えられた。


                    ありがたいお言葉。本当に名誉なことだったんだなぁ。

                    母は、この作品を世に出したことで、さらに次の課題に取り組む
                    ことになる。それは、赤裸々に吐き出したはずの自分史でも、
                    まだ書ききれなかった「戦争体験」だった。


                    母が「戦争体験」を死ぬまで語り書こうと決心したきっかっけとなった
                    この作品

                    「生かされて生き万緑の中に老ゆ」

                    http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_2%20ikasarete.htm

                    ikasarete - コピー.jpg

                    これを機にもう一度じっくり読み直してみたい。
                     


                    立春大吉

                    0

                      母が永眠して4か月が過ぎた。

                      脳梗塞に倒れ5年間の闘病生活を共に過ごしたが、2度目の脳梗塞で
                      意識を失う寸前まで母は戦争体験を語ってくれた。


                      母が要介護状態となって15年の月日は、母にとっても介護をする
                      私にとっても結構しんどいものだった。

                      でも、その間、母から娘へ、そして祖母から孫への戦争体験の語り継
                      ぎは確実に行われた。バトンを受け継ぐ時間としての15年間はまだ
                      まだ足りないほどだったかもしれない。

                      長年の闘病生活から解放された母の死に顔は実に安らかだった。
                      そして、長年の介護生活から解放された私は、身も心も開放され、
                      安まるはずだった。

                      ところが、自分でも不思議なほど喪失感と虚脱感に襲われ、母の遺影
                      には向えても母の遺した著書や手記には向えない心境が続いた。

                      それほど私にとって母の存在は重く、大きなものだったということを
                      改めて痛感した。

                      でも、百箇日が過ぎやっと春がやって来た。「立春大吉」♪

                      ようやく少し気持ちの余裕が出てきた。
                      これからまた少しずつ母の事績を顕彰してゆきたい。



                      rurusakuhin.jpg
                       母の遺した著書・句集・手記が掲載された書籍・手書きの原稿等々。

                       

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                      俳句結社「雉」同人。俳号、亜紀。 「京大俳句を読む会」運営委員。俳人協会会員。 ホームページ「平和への祈り」を管理。 「俳句誌「雉」HP「支部のページ」に、 「関西地区だより」を発信中。

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